中央アジア周遊記 Part4(終)
Part1,2,3の続きです。まだご覧になっていない方は、そちらからご覧ください!
ここまで読み進めていただいている方は、閲覧・スキなど本当にありがとうございます!旅もいよいよクライマックスです。読みにくい個所もあるかもしれませんが、最後までお付き合いいただけますと幸いです!
9日目【ペンジケント散策+地獄の始まり】
ペンジケントで見つけたホテル(Hotel Umariyon)はなかなか良かった。今回の旅では基本的に毎回ひとり2000円以内のホステルに収めていたが、このホテルも同様の予算内にしてこれまでで最高のクオリティであったように思う。前日、アイニで泊まったホテルが人生最悪(笑)のホテルだったこともあり、とても居心地が良かった。
荷物を置いてペンジケント散策に出かけることにした。ペンジケントの見どころは何といっても遺跡(Ancient Town of Panjkent)であろう。
市内から車で十分ほどの場所にある小高い丘の上にある広大な遺跡。凸凹とした起伏が立ち並び、確かに数百年前にそこに文明が存在したことを実感することが出来る。なかには直線的に切り出された遺跡などもあり、昔その場所でどのような営みが繰り広げられたいたのだろうかと想像するだけで1~2時間ほど楽しむことが出来た。また、小高い丘の上にあるので、そこからはペンジケントの街並みを一望することが出来た。遠くにはシルダリア川を望み、この地域の人々の営みが川と共に栄えてきたことを目の当たりにすることが出来る。
どれくらいの広さであったかは分からないが、5000平方メートル近いのではないだろうか。中央付近にははっきりと形の残った家の遺跡のようなものがあったが、そこには数匹の野良犬がこちらを警戒しながら居座っていた。幸い(?)筆者は大の犬好きであるが、狂犬病にかかるリスクを鑑み遺跡を離れることにした。
遺跡を離れ、すぐ近くにあった絢爛なレストランで夕食を取ることにした。言うまでもなく、チョイスしたのはシャシリク。ビールと共に流し込んだ。
結論から言おう。私はこの時に食べたシャシリクに「あたる」ことになる。激しい下痢と腹痛が1週間以上も続いたが、詳しい話は後述する。もし見苦しい話が苦手な方は申し訳ない。
食事を終え、ホテルに戻る途中にもたくさんの少年に絡まれた声をかけてもらった。「どこに泊まっているの?」と聞かれ、ホテルの名前を口にしたところ、「とても高級なホテルだね。」と驚いていた。また、彼らはある日本人プロレスラーの名前を言い、知っているかと尋ねてきた。恥ずかしながら、日本人であるのに聞いたこともない人だった。思い起こせば、この旅行ではこの少年以外にもたくさんの人々に誰々(日本人)を知っているかと質問されたが、一人も分からなった。彼らはどこでそのような知識を得ているのか不思議に思いつつ、ホテルへと戻った。
ホテルに到着してから3時間ほど経っただろうか。お腹の痛みを感じ、トイレに駆け込んだ。便の形状は言うまでもないだろう。同行者2人は無症状だったので、そのときは食中毒だとは思いもよらず、そのまま就寝した。
10日目【ペンジケント⇒サマルカンド】
最悪の目覚めだった。泥水が出るアイニのホテルで迎えた朝と同じくらいの。
すこぶる腹が痛い。聞いてみると、同行者もみなぐったりとしていた。食にあたったことを確信し、皆でトイレを分かち合った。
余談であるが、当方はアメリカに旅行に行った時も食あたりし、現地の病院で薬を処方してもらった経験がある。医学生としてはアメリカの診療システムを学ぶ良い経験になったのだが、タジキスタンは話が違う。適切な病院も見つからないだろうし、何より今回はアメリカでの教訓を踏まえて整腸薬なども沢山持ってきている。
とりあえず薬を流し込み、午前中にペンジケントからサマルカンドへと移動することにした。タジキスタンよりは衛生環境がしっかりしていそうだし、旅の終着点であるサマルカンドに到着することで精神的にもラクになるだろうと考えたからだ。
ペンジケントから車で1時間くらいでタジキスタンーウズベキスタン間の国境を越え、さらに1時間くらいでサマルカンドのホテルに到着した。タクシーではずっと便意を催しており、ホテルでは真っ先にトイレに駆け込んだ。
私は翌日にサマルカンドを発ち、日本に帰国する手はずになっていた。30分間隔で押し寄せる腹痛と中央アジアのトイレ事情の悪さを鑑みるに大人しく部屋で療養するべきであったが、今回の旅の一番の見どころであるサマルカンドのホテルでじっと閉じこもっているのも悔しい。私はサマルカンド散策に出ることを決意した。
さすがというべきか、サマルカンドはとても美しかった。腹痛がなければもっと楽しめたのだろうかと思うが、それでも満足した。サマルカンドは日本人観光客もいて、久しぶりに聞く日本語に新鮮な感情を持った。
グリアミール廟でも激しい腹痛に襲われた。公衆トイレがあったので駆け込んだが、トイレットペーパーは設置されておらず、私自身も持ち合わせていなかった。我慢するしかないとトイレを後にすると、トイレの前に座っているおばさんが30円を要求してきた。
おいおい、まじかよ。なんで手すら洗ってないのにお金を払わなきゃいけないんだ。これじゃあ、まるでサマルカンドの公衆トイレを視察するためにお金を払う変態じゃないかと思ったが、そんなことを伝えられるわけもなく仕方なく現金を手渡した(もし伝えられる語学力があったとしても、そんな文句は聞き入れられないだろうが)。
ちなみに、中央アジアの公衆トイレは基本的に有料で30円ほどかかる。また、トイレットペーパーが置かれていないトイレもあるので気を付けたい。
サマルカンド最大の見どころといっても差し支えないレギスタン広場に到着したところ、お腹も安心してしまったのだろうか、ついに私の便意は限界に達した。もう公衆トイレは信用できない。かといってトイレを借りるためだけにお店に入るのも忍びない。歩いて十分ほどの場所に宿泊しているホテルがあったので、1人でホテルへと戻ることにした。
無事に限界を迎える前にホテル(トイレ)に到着した。その日だけで10回以上はトイレに行っただろうか。同行者がサマルカンドを観光している中、私は再びホテルから出る気力がわかず、部屋で療養することにした。
シャワーを浴びて、その日は早く寝た。翌日帰国予定なので、飛行機内での体力を温存しておきたかったのだ。髪を乾かすときに、ホテル備え付けのドライヤーが東芝のものであることに気付いた。いや、よく見るとTOSHIBAではなくYOSHIBAと書かれている。腹痛のあまりついに目までおかしくなったかと感じたが、同行者に確認するとやはりYOSHIBAと書かれているらしい。お腹が痛くなかったら大爆笑していただろうが、その日の私の腹筋はすでに限界を迎えていた。そのまま布団をかぶった。
11日目【サマルカンド⇒タシケント国際空港】
昨日よりは幾分か腹痛もましになっただろうか。世界の誇る日本の高性能トイレが恋しく、それまでずっと楽しんでいた中央アジアであったが、日本に帰れるという安心感を抱き始めていた。
とは言っても、サマルカンドはまだまだ全然見尽くしていない。ホテルを出る前に5回ほどトイレに行き、満を持して散策に出かけた。
まず、ウルグベク天文台を訪れた。この天文台には六分儀があり、600年前にして一年間が365日6時間10分であることを計測した歴史的・科学的に極めて意義のある施設である。人類の叡智を感じつつ、私は早くも腹痛と戦い始めていた。結局あらがえず、そこの公衆トイレを拝借することにした。例によって金銭を要求されたが、後払いにしてくれといいトイレへと駆け込んだ。前日の教訓を踏まえ、この日の私はトイレットペーパーを懐に忍ばせていた。
無事にトイレを済ませ、トイレを見張っている先ほどの徴収お姉さんに現金を手渡そうとしたが、先ほどとは打って変わってお代はいらないという。どうやら、私があまりにも必死の形相だったので、腹痛に甘んじてサービスをしてくれたみたいだ。トイレ代を見逃してもらうのはこれが人生で最初の経験であり、おそらく最後の経験であろう。(そうであって欲しい)
その後も市内の散策を続けた。主要な有名どころはすべて行くことが出来た。なかでも、ビビハニム・モスクとシャーヒ・ズィンダ廟群は一面が真っ青の世界で、サマルカンドを肌で体感することのできる素晴らしい場所であった。
この日の空は快晴だった。青く塗られたモスクの外壁と青空の色は、それでもかなり違って見えた。この景色を見たアンミカはきっと「青って200色あんねん。」なんて言うんだろうなと馬鹿なことを考えられるくらいにはお腹も回復していた。
結局、他にも様々な名所を巡り、16時ごろにサマルカンドを出発することにした。同行者2人は引き続き旅を続けるので、彼らとも別れを告げた。食あたりに関して彼らは軽症だったので、先に帰国する私が一番重症で良かったなと思った。
サマルカンド駅からタシケント駅までは、鉄道で向かう。あらかじめ日本で2か月前にアフロシャブ号のチケットを予約していた私は、定刻に列車に乗り込んだ。
VIP席を予約していたが、日本の新幹線と全く変わらぬ乗り心地を享受することが出来た。同じ車両には日本人の姿も見られた。車内にとてもきれいなトイレが備え付けられていることを確認した私は、安心して車内での時間を楽しむことが出来た。
定刻に列車はタシケント駅に到着した。私が乗り込む便の離陸までは2時間半ほどあったので、余裕をもって空港に向かうことが出来た。
【最終日】
タシケント国際空港からは北京大興国際空港でのトランジットを経て、羽田空港へと向かうルートであった。お土産を一つも買っていないことに気付いた私は空港内の免税店を物色したが、結局めぼしいものは一つもなかったので手ぶらで帰ることにした。経験という名のお土産を持ち帰ることにして。
北京大興空港には午前6時ごろに到着した。次の飛行機までには4時間ほどあった。機内でほとんど眠れなかった私は、空港のベンチで仮眠をとることにした。ロングスリーパーたる私は危うく寝坊し飛行機に乗り遅れかけたが、無事に東京行きの飛行機に乗り込むことが出来た。あと数時間で日本のトイレを満喫できるという期待感に胸を躍らせていた。
機内では、隣に座る中国人女子大学生がずっと話しかけてくれたので、幸か不幸か退屈になることはなかったが、睡眠は一切取ることが出来なかった。
無事に羽田空港に着陸し彼女と別れてから真っ先に駆け込んだ久しぶりの日本のトイレは、この世の何よりも美しく感じた。
【終わりに】
かくして、長かったようで短い中央アジアの旅も無事に(?)終わりを迎えることが出来た。10日も経つ頃には、幾分か現地語も理解できるようになり、幸いにして多くの交流に恵まれた。
今回はじめてNoteで旅行記を書いたが、当時の記憶が鮮明によみがえるほどには沢山の経験を積むことが出来たと思う。
Part1~4までお読みいただいた方がいれば、とても嬉しい。Part4に関しては半分程度が私の見苦しいトイレ事情をお伝えすることになってしまったが、現実は数倍以上に苦しいものであった。帰国後10日ほど経つまで、トイレがずっと相棒になっていたのだから。
だいぶ長い旅行記になってしまいましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
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