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優しさの理由

 
 1

「賞状。優秀賞。雪鷺 広香(ゆきさぎ ひろか)。貴殿は第6回高校生ナショナルアートワークスに於いて頭書の成績を収められました。依ってここに栄誉を称え表彰致します。令和7年8月24日。NPO法人。世界美術文化振興協会。会長下田晴之(しもだ はるゆき)。おめでとう」

 校長先生に差し出された賞状を、私は両手で持つと、礼をして受け取った。そのタイミングで全校生徒数百人から拍手が送られる。体育館に響き渡る甲高い音は聞いてて心地よかった。

 両手で持った賞状を片手で抱えると先ほど自分のいた位置へと戻っていく。戻る最中、私の位置の隣にいる生徒が私の方を見ながら拍手を送っている姿が目に映る。リハーサルでは舞台に立っている生徒は拍手しない事になっているのだが、我慢しきれなかったみたいだ。

「広香、おめでとう」

 私が横につくと彼女は小声でそう言った。私は不貞腐れたような声で「ありがとう」と返す。そんな私に対して嫌な顔一つせず、彼女は笑みをこぼしっぱなしだった。
 次に彼女の名前が呼ばれ、私から顔を背けると校長先生の方へと歩いていった。

 揺れるさらさらとした綺麗な茶色のロングヘア。私よりも少し小さな体。しかし、私から見れば、彼女はとても大きく感じた。それはきっと、私の中にいる彼女の存在が投影されているからだろう。

「賞状。チャールズ皇太子賞。若槻 神奈(わかつき かんな)。貴殿は第6回高校生ナショナルアートワークスに於いて頭書の成績を収められました。依ってここに栄誉を称え表彰致します。令和7年8月24日。NPO法人。世界美術文化振興協会。会長下田晴之(しもだ はるゆき)。おめでとう」

 校長先生から渡された賞状を若槻は両手で受け取った。
 会場から飛び交う拍手は先ほどと変わらず。私が拍手しなかった分、むしろ劣っているのかもしれない。みんな彼女の才能を軽視しすぎている。これが仮に美術学校だったら、スタンディング・オベーションしている生徒もいるだろう。

 若槻 神奈。今日本で一番の芸術センスを有した本物の『天才』だ。

 ****

 幼い頃から『絵を描くこと』が好きだった。
 好きこそ物の上手なれ。絵を描き続けることで技術は上達し、他の子達よりも上手な絵を描くことができた。それによって、親や先生に『絵が上手』『絵の才能がある』と褒められた。褒められたことで嬉しくなった私はさらに絵を描き続けた。

 小学校の間も描き続け、学内はおろか市内のコンテストではいつも一番をとっていた。親や先生は絵の才能がある私を褒めてくれた。だからか、私はいつしか『絵を描くこと』ではなく『絵を描いて褒められること』を嬉しく感じるようになっていた。

 さらなる高みを目指すことを決意した私は美術を専門とする中学校に入学する事にした。さらに美術を学ぶ塾にも入ることにした。同じ志を持つ者の中で上位を取ることができれば、私の存在価値を一層高められると思った。

 そこで私は『挫折』を味わう事になった。

 美術学校には数多の才能が集っている。私もその一人だと思っていた。
 でも実際は、ただの勘違いだった。私はどの分野においても凡人にすぎず、評価はいつも真ん中くらいだった。

 真に才能のある人間の作品が記憶に残るばかりで、私みたいな凡才の作品は誰の記憶にも残らなかった。市内で一位を取ったと言っても、それはただの小さな集団の中での話にすぎない。小さな集団の上位者が集まった集団の中では私は他の人間とほぼ大差はない。むしろ劣っていたのだ。

 それでも私は必死に努力した。自分が、親が、先生が認めてくれた自分の才能が凡才であったことが許せなかった。中学でも、塾でも、家でも、ただひたすら筆を持ち続け、キャンバスに向かい続けた。

 今になって思えば、これだけ頑張ることができたのは私が敵意を向ける相手が皆、私に対して敵意を向けていたからだろう。才能のある人間は自分の世界に浸りすぎているせいか相手の世界を貶す傾向がある。

 道具の使い方がなっていない。絵の書き方が下手だ。もっと表現の仕方がある。自分の世界に似合わない作品を目の当たりにするとすぐにダメ出ししてくる。私の作品を見にくる者たちは皆すべからく心の中にナイフを秘めていた。だから私も自分の心にナイフを持つことができた。

 まあ結局、彼らの才能に敵うことはなく、三年間の努力があっても私は美術学校で成績を残すことができなかった。そのため高校は心を休めるために地元の高校に入り、のんびりと美術を楽しむつもりでいた。

 だが、入学した高校には『真の天才』がいた。
 本物の天才は有名なところには行かないと聞くが、彼女はまさにその典型的なパターンだった。初めて彼女の絵を見た時、私は金槌で打たれたような気分になった。

 美術学校にいる生徒の誰とも違う。一度見ただけでそれが手に取るように分かった。言語化できない表現。どれだけ極めても先天的に持ちし才能が生み出す表現と技法には叶わない。それが本人も自覚がないのならなおさらだ。

 しかし、それだけなら私は彼女を恨むことはなかっただろう。

「うぉー! いいねー! この高校での受賞は初めてらしいよ! 私たち学校に名の残してしまったよー」

 若槻は美術室の端に掛けられた自分たちの賞状を見ながら、私に言う。キラキラ光る彼女の瞳は全身に浸透しているようで、彼女のオーラ全体がキラキラしたものとなっていた。
 私は彼女に顔を向けるものの、それは束の間で再び賞状の方に向き直った。

 二人の賞状は美術部の功績として美術室に飾られることとなった。賞状とは言っても、画用紙に印刷したもので、実物は自分たちの家に持って帰る事になっている。

 並べられた二つの賞状について、正直私はあまりよく思っていない。せっかくの私の好成績が隣にある若槻の成績によって、完全に相殺されてしまっている。この二枚を見比べた時、私は劣っていると皆からレッテルをつけられるのだ。入賞できていない生徒はたくさんいるのに、なぜ自分が劣っていると思われなければいけないのだろうか。

「ねえねえ! 入賞のお祝いにさ、二人で祝勝会しない? 一度やってみたいんだよね?」

 私の苛立ちをよそに、若槻は隣で明るい笑みを見せ、語りかけてくる。
 彼女のこういうところが嫌いなのだ。天才のくせに人に対して非常に優しい。驕り高ぶる事なく、美術部員の皆に優しく接する。教えも丁寧で、否定することはまずない。

 優しい天才。そんな人間がいるとは思いもしなかった。
 とはいえ、こう言う人間は少数の方がいい。そうでなければ、秀才が可哀想だ。
 胸ポケットにナイフが隠されているのを知らず、彼女は何も持たないで歩み寄ってくる。

 邪気の全くない彼女に対して、胸の内に邪気を隠している自分。サイコパスであれば、好意的に感じていただろう。でも、私は普通だ。何も害のない人間に対して、邪気を向けるほど心汚れてはいない。

 だから胸ポケットに仕舞われたナイフはいつも自分の心を抉ってくる。
 優しさと言うのは難しいのだなと、相手越しに気付かされた。憎い敵は、ずっと憎い行動を取り続けてくれた方が救われるのだ。

 人間力でも勝てない自分がとても小さく見えてしまうから。

「いいね。じゃあさ、若槻の家で祝勝会しない?」
「私の家? いいよ! じゃあ、この後はどう?」
「うん、行く」

 心を抉ったナイフが私の邪気を外へと放出していく。
 自分が普通だと思っていたはずなのに、すっかり狂人になろうとしていた。
 仕方がない。これ以上、彼女の優しさに触れたら、身がもたない気がしたのだから。

 若槻の家で彼女の秘密を探ろう。私はそう決意した。

 2

 どれだけ優しい人間でも、内には邪悪を秘めている。
 それが如実にわかるのは、やはり『家』なのではないだろうか。
 きっと若槻は自分の家にとんでもない爆弾を抱えている。それを今日暴いてやる。

「でけぇ……」

 そう思っていたが、彼女の家に来た瞬間にそれが吹っ飛びそうになった。
 車四台は入るのではないかと思われる大きな車庫。門戸に入り、階段を上がることで浮き上がる広大な芝生の庭。そして、普通の一軒家二戸分と思えるほどの大きな建物。

 一眼見ただけで彼女の家庭が『富豪一家』であることが分かった。
 若槻はお嬢様だったわけか。もしかして、それが彼女が優しい天才である所以なのだろうか。いやいや、そんなはずはない。きっと何か隠している。

 若槻は玄関の扉を開け、私を家へと招き入れる。扉は両開きとなっていたが、若槻が開けたのは片方だけだった。豪勢ではあるが、利便性には欠けているらしい。私は「お邪魔します」と小さく言いながらゆっくりと中へ入った。家に入るのに気が引けたことから自分は庶民なんだと思わされた。

「神奈様、お帰りな……あら、お客さんですか?」

 玄関に入るとエプロンを着た女性が出迎えてくれた。
 母親にしては若すぎる。見る限り30代くらいであろう。それに若槻のことを『神奈様』と言うのも変だ。

「霧島さん、ただいま。うん。学校のお友達」
「雪鷺 広香です。よろしくお願いします」
「雪鷺様。とても可愛らしい子ですね。初めまして。若槻家で家政婦をしております霧島 柚月(きりしま ゆづき)と申します」

 家政婦と言う言葉を聞いて、私の疑問は解消された。
 こんなに広くて豪勢な家なのだ。家政婦が一人や二人いてもおかしくはない。
 それにしても、雪鷺様か。聞き慣れないというか、烏滸がましい感じがする。様をつけてもらえるほどの身分でも人柄でもない。

「困ったことがありましたら、私にお申しください。ケーキはお好きですか?」
「は、はい。大好きです」
「では、後ほど紅茶と一緒にケーキをお持ちいたしますね」

「ありがとうございます」
「じゃあ、広香。私の部屋に行こ! 霧島さん、よろしくね」
「はい」

 霧島さんは若槻にお辞儀をすると奥の方へと歩いていった。そのタイミングで私は靴を脱ぎ家へと入る。いつもなら靴はそのまま脱ぎ捨てるのだが、流石にこの家に脱ぎ捨てられた靴は似合わない。それ以前に礼儀正しくない。私は後ろを振り向き、脱いだ靴をくるりと半回転させた。

「広香は几帳面だね」
「え……ま、まあね……」

 若槻からの賞賛に口ごもる。今は几帳面を演じているから間違ってはいないはずだ。
 靴を整えたところで、私たちは奥へと進んでいった。若槻の部屋は2階にあるらしい。2階は1階のリビングにある階段を使って上っていくようだ。

 リビングに入ると大きなU字型のソファーがあり、座った先には100インチのテレビが取り付けられている。初めて見る画面のサイズに気分が高まった。リビングの横にはベランダがあり、足湯ができる空間がある。家に足湯があるのを羨ましく思った。
 
 初めて見るものが多く、顔をあちこちに向けながら若槻の案内に従う。当初の予定は頭の脇に追いやられてしまっていた。
 色々なものを眺めながら階段を上がろうとする。そこで私は思わず足を止めた。

 階段を上がる寸前、奥にある和室が視界に入った。
 和室は真ん中に木材のテーブルがあり、それを囲むように座椅子が置かれている。一見しただけではただの部屋。だが、私の目に止まったのは部屋の奥にある仏壇だった。

 仏壇には二枚の写真が置かれている。
 若い女性の遺影とその女性が子供を抱えて笑っている写真だ。
 
「どうしたの?」

 不意に若槻に声をかけられる。見ると彼女はすでに2階へと足を運んでいた。思っていたよりも長い時間止まっていたみたいだ。私は「なんでもない」と言いながら、階段を勢いよく上っていった。もしかすると少しばかり行儀が悪かったかもしれない。

 若槻の元へ行くと、彼女は特に何を言うわけでもなく「こっちだよ」と私を案内した。こう言う時に何も聞いてこないのは嬉しい。他の奴らだと「なんかあるなら言えよ」とすぐに言ってくるが、若槻は違った。

 2階には部屋が数多くある。これらは一体何用の部屋なのだろうかと疑問に思うが、そんなことを聞くのは野暮だろう。真ん中くらいに来たところで若槻はとある一室の前で足を止めた。

「ここが私の部屋。先に中に入っててもらっていい。私はちょっとトイレに行ってくるね」

 彼女はそう言うと、さらに奥の方へと足を進めた。足取りは先ほどよりもやや早くなっている。私を案内するために我慢していた様子だ。
 それよりも、これは絶好のチャンスなのではないだろうか。

 私はドアノブに手をかけると部屋の中へと入っていった。
 彼女の部屋はとても綺麗に整理されていた。天才の部屋は散らかっていると聞いてはいるが、彼女は真逆だ。何一つ無駄のない空間配置。机にある教科書は教科ごとに綺麗に並べられ、他の小道具などは一切見られない。おそらく引き出しに整理されているのだろう。

 ベッドには二つのぬいぐるみがあり、それらが枕を囲んでいた。
 秘密のものを隠すといえば、おそらくクローゼットだろう。そう思い、私は部屋の引き戸へと手をかけた。

 彼女の秘密が書かれたものが欲しいと願いながら戸を開ける。
 刹那、私の目の前に現れたのはガラクタの山だった。それらは私が戸を勢いよく開いたことでバランスを崩したのか私の方へと倒れてくる。連なった大きさは私の身長を軽々と超えており、それらが私に覆い被さるように倒れてくる。

 慌てて戸を閉めようとしたが、間に合わず、私はガラクタの山に埋もれながら背中から崩れ落ちていった。大きな音が部屋中に響き渡る。埋もれながらも私は冷や汗を掻いた。見つかる前に早く片付けなければ、体に乗ったものを跳ね除けながら状態を起こしていく。

「広香っ! 大きい音がしたけど、どうし……」

 すると若槻が勢いよく部屋の戸を開けた。慌てたような声を出すものの私の状態を見て目を丸くした。私は半分だけ起き上がった状態で若槻を見る。どう反応すればいいかわからず、照れを隠すように笑うことしかできなかった。

 3

「ごめんねー。私、いらないものはクローゼットにしまう癖があるんだよね」

 私たちは二人でクローゼットから出てきたたくさんのガラクタを整理整頓していた。若槻は私がクローゼットを開けたことに対して咎めることはなく、ただ床に散らかった物を手に取るだけだった。

「勝手に開けてごめん」

 だからか、良心に耐えきれず、私から若槻に謝った。このまま何も言わなければ、追求されることはなかっただろうに、私は何をやっているんだろうか。

「気にしないで。怪我とかはない?」

 だが、若槻は私の謝罪を素直に受け止めるだけだった。代わりに心配の声をかけてくれる。何も言ってくれないのはありがたい。ただ、若槻が好意的な行動を見せれば見せるほど、この状況における善悪がはっきりとしすぎて不甲斐なさを覚える。

 なんだか若槻の悪いところを探そうとしていた自分が馬鹿らしく感じた。

「おおーっ! これ、懐かしいな!」

 片付けていると、不意に若槻が大きな声をあげた。私は反射的に彼女の方へと顔を向ける。見ると、彼女は一枚の封筒を手にしていた。A4サイズの紙がそのまま入りそうなくらいの大きさだ。

「何それ?」

 私は若槻の方へ歩いていくと、彼女の隣に座る。
 若槻は封筒の中に入っているものを取り出す。中にはA4サイズの画用紙が数十枚ほど入っていた。画用紙には風景画や自画像、モチーフ画らしきものなど多種多様な絵が描かれている。

「懐かしいなー」
「これ、若槻が書いたの?」
「うん、小学6年生の時にね」
「小学6年生……」

 見る限り、高校生くらいが描きそうな絵のクオリティーだ。絵の形はもちろんのこと、構図や濃淡の付け方など、とてもじゃないが小学生で出せるものではない。この頃から才能を開花させていたんだな。

「お母さんとの最後の思い出の作品たちなんだ」
「お母さんとの最後って……」
「私が小学を卒業するときに他界したの」

 やっぱり、あの仏壇に飾られていた写真は若槻の母親だったのか。

「この時は辛かったなー」
「そう……だよね。そんな小さい時に母親がいなくなったら……」
「いや、この作品を描いていたときの話ね」
「紛らわしいからやめてよ……」
 
 しんみりとしていた感情は、若槻のボケによって相殺された。案外、若槻は母親を失くしても平気なのだろうか。

「いつ描いたの?」
「夏休みの時。お母さんと二人で1日2題、美術大学で過去に出題された問題に取り組んでいたんだ。一次試験のみで、A4サイズにしているから簡略版だけど」
「1日2題って、鬼畜すぎない? 普通にやったら、10時間以上はかかるでしょう? それを毎日って」

「うん、だから『地獄の絵描き大会』って呼ばれてたんだ。小学生最後の夏休みだっていうのに、今までで一番ハードだったよ。これのために、夏休みの宿題なんて夏休みになる前に9割終わらせたんだから」
「うわー、きついね。でも、どうしてそんなことを?」
「えっとね……」

 若槻は遠くを見ながら何やら言いかねている様子を見せる。
 これを描く理由に対して、そんなに言い悩むことがあるのだろうか。母親との最後の作品と言っている以上、私が必要に聞こうとするのは烏滸がましい気がする。

「大変お恥ずかしい話になるので、他言無用でお願いしていい?」

 私は静かに頷いた。彼女の言い方的に誰かに初めて話すお話らしい。それを自分に言ってくれることを少しばかり嬉しく感じた。当初の予定通り、彼女の秘密が聞けるかもしれない。

「実はさ……私って絵が上手いじゃん?」
「まあ、チャールズ皇太子賞をとってるからね」
「でしょ。まあ、それもあってか、小学校の頃はよく他の子達の批判をしてたんだよね。小学生って意外と素直じゃん」

「うん……自分で言うのはどうかと思うけど」
「てへへっ……でね、それを見越したお母さんがこの世への置き土産として私に身を挺して教えてくれたんだ。どんなことがあっても人を批判するようなことはしてはいけないって」
「なるほどね……それで、なんでそのことが『地獄の絵描き大会』に繋がるの?」

「ほら、私ってあまり絵をたくさん描くって感じじゃないじゃん?」
「そうだね。気が向いたら描くって感じ」
「でしょ。それは私には『努力をする』っていう才能があまりないからなんだよね」

「それであの質の絵を描いているのはなんだかムカつくけど」
「ごめんごめん。まあ、そう言うわけで、あまり努力をして来なかった私は、他の人もそんなものだと思い込んでいたわけ。小さい子って主観的に物事を判断することが多いじゃん」

 小さくなくても、主観的に判断する人間はたくさんいる。才能のあるやつは特にそうだった。

「けど、そうじゃないんだってお母さんは分からせたかったんだろうね。だから最後の夏休みを使って、私に『努力』と言うものを教えてくれたんだ。自分はすこぶる体調悪いにもかかわらず、私と同じく1日2題取り組んだんだよ」
「お母さんもやったの?」
「もちろんだよ。でなきゃ、私は怠けただろうからね。自分がやることで私にプレッシャーを与えたの。ホント意地悪なお母さんだよ。だからこそ、今も大切に胸の中にしまえることなんだけど」

 若槻の優しさは母親から受け取ったものだったのか。だから、あんなにも他の人たちを受け入れてあげれたんだ。努力する才能がないからこそ、努力する人間に対して尊敬することができている。

「絵ってさ、不思議だよね。制作時間が3時間の作品であっても、深掘りすれば『その人のこれまでの人生と3時間』って感じだもんね。どんな物を見て、どんなことを感じて、どんなことを思ったのか。それら全てが合わさって絵が作られる。ねえ、ピカソの逸話って知ってる?」
「30秒で描いた作品に100万ドルの値打ちをつけて、理由を聞いたら『30年と30秒』って言ったやつ」
「そう。たった一つの絵を描くだけでも、その裏には血の滲む努力があるんだよね。2枚目に描いた作品は1枚目の意志を受け継いでいる。3枚目に描いた作品は1枚目と2枚目の意志を受け継いでいる。今から自分が描く作品にはこれまで自分が描いてきた作品の意志が受け継がれている。そう考えると、誰が描いた作品も私には輝いて見えるんだ」

「そっか……なんか……ごめん」
「どうして急に謝るの?」
「えっ! あ……その……なんでもない!」

 私は顔を若槻から背ける。その瞬間、体温が上昇していくのが分かった。ものすごい羞恥心が私の心を埋め尽くしていく。

「なんでもないって何よ!?」

 若槻はそんな私に躊躇することなく、顔を近づけて聞いてくる。私はさらに顔を背けて若槻に応戦した。まさか彼女がそんなことを思ってみんなの作品を見ているとは思いもしなかった。私は彼女を恨んでいたことを心底恥ずかしく感じた。

 これからは彼女のことを、きっと今までにないくらい輝いて見れることだろう。
 私は男に生まれて来なくてよかったと思った。もしそうなっていたら、今胸に抱いたこの感覚にいてもたってもいられなくなっていただろうから。

 ****

「今日はありがとう」

 その後、二人で自分たちの昔話をした。
 若槻だけ話して私が話さないわけにもいかない。彼女を恨んでいたこと以外は余すことなく全て話した。彼女は親身になって私の話を聞いてくれた。

 なんだかそれがすごく嬉しく感じた。

「こちらこそ、広香のこと色々知れて良かったよ」

 若槻は門戸まで私を見送ってくれた。夕日に映る彼女の姿はとても華やかで今この場面を絵として描きたいほどだった。

「また来てもいい?」
「いつでもいいよ。来てくれたら、霧島さんも喜んでくれるだろうし」
「じゃあ、次は冬休みに『地獄の絵描き大会』でもやろうか?」
「それは絶対やだ」
「冗談冗談、じゃあ、またね。神奈」

 私はそう言って手を振った。神奈は瞳を大きく開く。その後の彼女の反応を見ることなく私は帰路の方を向いた。神奈の言葉で散々気持ちを振り回されたのだ。最後くらい仕返ししておいてやらないと。

 空に光る茜色の夕日を見ながら私は一人でに微笑んだ。
 彼女の優しさの理由は『人の経験に対する尊敬』だった。私も今後付き合う人に対して、そうやって思えるようになりたいと心から願った。

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