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不思議さに生かされる

私の古い記憶。
下を見ると自分の肌色の、少し膨らんだおなかがあった。
「ここ、なにがはいってる?」と思った。どうやら何か入ってそうだ。
同時に、「なんでなかみをしらないの?」という不思議さを感じた。
自由に体を動かせるのに、体について何も知らない。
いつの間にか体の内側にいて、既に体を動かしている。
それがじんわりと不思議だったのだ。

私は保育園にいた。先生の隣でご飯を食べている。
ふと「なんでおこめは、つぶつぶなんだ?」と思った。
ご飯つぶを、細いお箸で寄せて、隅にまとめて、口へかきこむ。
つぶつぶだから食べるのがめんどくさかった。そんなに味もしないし。
もっとカタマリのハンバーグやブロッコリーが好きだった。
私はご飯を残した。
何でこんなにつぶつぶなのか、すこし不満だった。

中学校の数学の時間。
先生はyとxのグラフを書きながら放物線の話をしていた。
石を投げると、左右対称の放物線を描く。
物理という世界をかいつまんで教えてくれた。
私の心臓が高鳴った。「やっぱりそうか」と思った。
世界には法則がある気がしていた。
授業が終わると一人でこっそり教室を抜け出し、
図書館の辞書で「物理」という言葉を引いていた。
我ながら赤面ものの行動だが、わざわざ足を運ばせるエネルギーがあった。
日々興味を持っていた概念に名が与えられた。
どうやら世界は全てこの「物理」でできていそうだ。そう思った。

世界は不思議で溢れている。
いや、世界が不思議なのではなく、私たちの中で不思議さが作られている。
ニュートン曰く、「光そのものには色はついていない。」
色は私たちの中で作られている。
私の赤色と、あなたの赤色は同じだろうか?
この単純な難問に対して人類は未だ答を出せていない。
それどころか、どうアプローチしてよいかさえも、わからない。
私たちはどこまでも無知なのだ。
しかし無知だから不思議なのだ。
まだ私が考える余地がありそうで、ありがたい。

不思議は私の中で作られる。
不思議が私を生かし続ける。

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