見出し画像

【エッセイ】些細な事でも人生に好きなものが増えるのは豊かなことだと思った話

数年前からコッペパンが流行っているそうだが、私は給食で出されるコッペパンが大嫌いであった。

ポソポソとしたパンは口の中の水分を奪い去り飲み込むのを困難にするし、飲み込めずにずっともごもごさせていると、独特なコッペパンの香りというか風味がずーっとつきまとい、吐き気がした。残念ながら牛乳も苦手で、“いただきます”のあとに一気飲みしていたため、牛乳で流し込むといったことも出来ず、献立がパンの日はなんとなく朝から憂鬱なのだった。


コッペパンにいい印象を抱いていなかった私は、「コッペパンブーム」を冷ややかな目で見ていた。レトロブームか何だか知らないが、なぜこんなにもコッペパンがもてはやされているのか理解できない。私はこのままコッペパンなんて食べなくていい人生を静かに送っていきたい。


 


数週間前、車を走らせていたら「コッペ田島」という看板が目に入った。店の前に置いてある三角看板にはすごい数のコッペパンの写真が並んでいる。あれがメニュー板なら、どれだけ種類があるのだろうか。

そういえば「コッペ田島」という店を1、2年前もどこかで見かけた気がする。そのときは「変な名前だなあ」という失礼な感想を店名に対して抱いただけで気にも留めなかった。

いったいどんなメニューがあるのだろうと、気になって帰宅してから調べてみた。

どうやらコッペパンに様々な具材をサンドしたもので、惣菜系と甘い系があるようだ。揚げパンやメロンパンなどの変わり種もあり、そのどれもが大層美味しそうに見えた。あまりに美味しそうだったため、長年のコッペパンへの怨念を捨てて流行にのろうという気になった。


私はもう大人であるから、食べるも食べないも個人の采配で決められる。自由である。なんて有り難いことだろう。ああ、大人になってよかった。いや、中身は大人になったと言えるか自信がないから、「社会一般的には“大人”と認められている年齢まで、歳を重ねてよかった」とでも言っておこう。


いつか行きたい店リストへ追加して、いつ行こうかなあと考える。
二日に一度のペースで「コッペ田島」のホームページを開き、何を注文しようかと真剣に悩む。私はおちょぼ口で、サンド系のものを食べるのが下手くそのため、「店で食べるなら、“サーモンクリームチーズ”が食べやすいかもな」とか「でも一番食べたいのは“海老とアボカド”だな」と考え、「でもヘルシーすぎてパンチが効いたものも食べたくなるかもしれない」と心配したりもした。

量はどうなのだろうか。私の腹は時々ブラックホールが発生するため、何個買えばいいのかすごく迷う。


 数日が経った。「コッペ田島」へはまだ行っていない。勇気がでないからである。
その間、メニューを眺めてモチベーションを維持することだけは続けている。一度機会があり、「今日のランチはコッペ田島にしないか」と夫に提案したら、「腹が空いていない」と断られて断念した。


 それにしても、初めての店へ行くのはなぜこんなにも緊張するのだろうか。お店や店員の雰囲気、注文や支払いのシステムなど、行く前に考えたって仕方のないことを心配し、最悪のパターンを想像しては怖くなって先延ばしにするのである。なんとも不毛な時間である。


しかし、この時間は最近の私にとって「心の準備運動時間」になりつつある。数年前までは、この思考回路のせいで「行かない」ことばかりだったが、最近は「怖い怖い」と同時に、「まあでも、そんな最悪の状況にはならないだろう」ということもぼんやりと考えている。

こういう風に思えるようになったのだって、「怖い怖い」と引きこもり、時々行動に移して「おや、大丈夫かもしれないぞ」と思い、けどまた「怖い怖い」と引きこもる、といった一連の行動を、何度も繰り返してきた賜物である。


 運動不足の者がいきなりダッシュしようものなら、足の筋をピキッとやって痛めてしまうのと同じように、臆病者にはそれ相応の心の準備運動が必要になる。それが、「怖い怖い」なのである。
臆病者が“行動力を身に着けたい”と思ったときには、「怖い怖い」から目を背けず、「怖い怖い」と全力で怖がることがスタート地点になるのだ。この準備運動をサボっていきなりダッシュしようものなら、筋を痛めて恐怖心が増す可能性があるから注意が必要だ。


 


さて、 “今日なら行ける”という日は、前触れもなく訪れた。
夫は、「一緒に買いに行かなくてもいいならそれでいいよ」という消極的姿勢であったが仕方ない。一緒に食べてくれるのだから、贅沢は言わない。

「あわよくば一緒に行けるかも」という弱気な気持ちがなかったといえば噓になるが、一瞬感じた夫への苛立ちは、「1人で行くのが怖い」という恐怖心を夫が消してくれなかったことへの苛立ちで、単なる八つ当たりである。すぐに気持ちを切り替え、「すぐに買ってくるから待ってろヨ!」と言い捨てて出発した。


 

店は想像よりも利用客が多く、店内も明るく清潔な雰囲気で「うお~」と思った。が、「うお~」と思いながらも逃げずに入店した。

中に入ると、おばあちゃんが注文しているところであった。そのおばあちゃんが大変お喋りで、しかもすごく楽しそうに話すものだから、後ろで聞いている私まで緊張がほぐれてきた。
ふと、“私はどんなおばあちゃんになるのだろう”と気になった。こんな風に、場を明るくできるおばあちゃんになりたいと思ったが、そもそも私はお喋りじゃないからもっと自分に見合った路線を探っていったほうがいいかもしれない。


 そんなことを考えていたら、私の後に来た女性が私より先にレジに行ってしまった。「あれ、次私…」と思いかけたところで、並ぶ立ち位置を示す床のラインに気がついた。私はその列から離れた場所に立っており、そそくさと並びなおす。注文を先に終えた女性が列に並びなおしている私に気が付き息を吞んだのがわかった。「あなた、並んでたの⁉」という表情である。恥ずかしい。

その女性は私が立っている場所や、おばあちゃんをニコニコと見つめている様子を見て、“おばあちゃんの連れ”だと思ったに違いない。私がボケっとしていたばかりに、その女性に気まずい思いをさせてしまった。私にコミュニケーション能力の一つでもあれば場を取りなすこともできたかもしれないが、あいにくそんなものは持ち合わせておらず、とりあえず「私の不注意ですから、まったく気にしてませんよ」というオーラを全身から放出しておいた。


 夫は「てりやきチキン」、私は「海老とアボカド」と「半熟卵ビーフシチュー」を選んだ。想像以上の美味しさに、夫とふたりで「美味しい、美味しい」と頬張った。コッペパンにまったく期待していなかった夫でさえも、「もっと食べたい…」と一つしか頼まなかったことを後悔していた。


 久しぶりに食べたコッペパンはポソポソなんてしておらず、驚くほど柔らかかった。パンだけでなくお肉なども歯切れが良くて、食べやすさに感動した。これは全国のおちょぼ口民の味方といっても過言ではない。


 こんなに安くて美味しいものが世の中にあったのだなあ、と嬉しくなる。流行に疎く、一回りも二回りも乗り遅れる質のため今も流行っているのかはわからないが、なんにせよ、美味しいものや好きなものが増えることは豊かなことである。次はどの味を食べようか。


そして、今度行ったときにはちゃんと列に並ぶのが目下の目標である。



この記事が参加している募集

やってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?