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ドローンも凱旋門もみんな知っている

明治の頃の小説を読むと、今の小説より風景描写が多いことに気づきます。
新しい場所が登場したときとか部屋の様子をかなりの行数を使って描写する小説が多いです。
最近の小説は、純文学でも風景描写が数行続くことはあまりありません。中にはあるかもしれませんが。
風景描写だけではなく、物を説明する描写も減ったと思います。

描写全体が減った理由に、視覚情報が巷に溢れていることが挙げられます。テレビや映画、ネットで映像を簡単に入手することができます。行ったことがない場所でも、テレビ番組で見たことがある場所は多いでしょう。
東京へ行ったことがなくても東京スカイツリーの形状を知っているでしょうし、パリの凱旋門も見たことがあると思います。
物もそうです。ドローンやタブレットPCなど、自分が持っていなくても、どんな形をしているか大体わかるのではないでしょうか。

明治の時代は、そうではありません。映像情報はほとんど出回っておらず、白黒写真や絵画ぐらいですから、目に触れるには瓦版を入手したりしなければなりませんでした。最新情報が伝わるには時間がかかるので、新しいものや見知らぬ場所を小説内に登場させるときには、きちんと文字で描写しないと読者はイメージできないわけです。
今なら、「ドローンが空を舞う」と書けば、読者が抱くイメージは大体同じです。
だから、最近の小説は描写が少ないというか不要になってきたのだと思います。

ただ、視覚情報が氾濫しているデメリットもあります。みんなが抱いているイメージが似ているので、ちょっと異なるイメージを提供するのに苦労します。普通と異なる形状や場所なら、きちんと書き込む必要があるわけです。
逆に、そういった一般的なイメージを用いて、トリックを仕掛けることもできるかもしれません。ミステリーとかで。


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