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数理科学編集部編『物理の道しるべ-研究者の道とは何か』【基礎教養部】

書評は上のサイトを参照.

はじめに

私は普段ほとんど一般書を読まないし,何か文章を書く経験もほとんどない.もちろん専門書はたくさん読んでいるが,一般書に関しては中学生の頃まではそこそこ読んでいたものの,高校生から今に至るまでほとんど読んでいない.専門書を読むとその分野の知識はついてよいと思うが,どうしてもその分野の知識に偏ってしまう.私は専門知識を身につけるのももちろん重要なことだと思うが,もう少し広い視野を持ちたいと思っているのでこの基礎教養部での活動をきっかけとして様々な本を読んでいきたいと思う.また,文章を書く経験がほとんどないので,日本語として変なところ等あると思うが,ご容赦願いたい.書評を書くというこの活動を通して経験を積んでいきたいと思う.今回は,自分自身が今年物理の院試を受けるということもありちょうど物理の研究者の道について考える良い機会だと思って『物理の道しるべ』という本を選び,書評を書くことにした.今後は物理に限らず様々な分野の本を読んでいきたいと思っている.

前置きはこのくらいにして本題に移る.まず最初に自分が今物理の道に進んでいるきっかけ・道筋について振り返り,その後に本の中で気になったトピックに対していくつか述べたいと思う.

私が物理の道に進んだきっかけ・道筋

私は,小学生・中学生の頃から数学・理科が好きであった.単純に得意だったから好きだったのかもしれないが,当時,You Tubeの動画でフェルマーの最終定理に関するドキュメンタリー番組やモンティーホール問題に関する動画などを見ていて面白いと思っていたのを覚えている.また,たしか「NHKスペシャル 神の数式」という番組を見て,内容はわからないなりに面白いと思ったことが私が今物理をやっている原点だったのかもしれない.

その後,高校に進み,高校2年生から物理を授業で習い始めた.初めに習う速度・加速度や斜方投射のところに関するテストの問題が全然解けず一瞬挫折しかけたが,その後必死に勉強してコツをつかみ物理は得意な科目になった.今から振り返るとその当時は単純に物理に対する「慣れ」が足りなかっただけだと思う.理系の大学生の多くは,当時は難しく感じたであろう,高校の数学で習うような微積分が今では当たり前になっていると思う.それは,微積分を長い間使っていて慣れているからである.人それぞれだと思うが,「慣れ」までにはある程度時間がかかるので,たとえ初めの方で躓いたとしても諦めずに普通に(巷にあふれているようなテクニックとかに走らずに)勉強していったらそのうち「慣れ」て必ずある程度はできるようになると思う.

それはさておき,私は理数科に通っていたので高校2年生の時に課題研究という4人の生徒に1人の先生がついてなにかテーマを決めて研究をするというものがあった.私のグループではグラスハープの振動について研究を行った.グラスに鏡を貼り付けてそこにレーザーを当て,グラスの縁をこするとその反射された光はリサージュ曲線を描くのだが,その大きさを測定することによりグラスを縦に伝わる波が振動数に関係しているということがわかった.そして,その成果が認められたためか全国の研究発表会で発表することができた.今から思うとその研究の正しさは微妙でありお遊びみたいなものかもしれないが,実験結果を解析して先生も含めて議論し,うまい具合に振動数との関係を発見できた瞬間の喜びは今でも覚えており,その経験は間違いなく今自分が研究者を目指していることに繋がっていると思う.

その他にも高校では科学の甲子園に出場したり大学の先生の公演を聞いたりと様々な経験をさせていただきそのような経験も今物理をやっていることに繋がっていると思うが長くなってしまうのでここでは割愛する.そしてなんだかんだで大学に進学することができ,今は力学,電磁気学,熱・統計力学,量子力学等の基本的なところの勉強は大体終わっており(まだまだ学ばなければならないことは山ほどあるが少なくとも授業では),いよいよ今年から研究室に配属されて研究が少しずつ始まるという段階である.

私自身のことに関してはここまでにして以降は『物理の道しるべ』を読んで気になったトピックに関していくつか述べようと思う.

自然現象と触れ合う機会

本書を読んで,小さいころに自然現象と触れ合ってきた研究者がそこそこ多いように感じた.例えば,書評に例としてあげたように,阿部龍蔵氏は,中学生の頃,どれくらいの磁場が生じるかを実験したくて,パワートランスを改造して得たコイルを100Vの電源につないだ結果,とたんにショートしてヒューズが飛んだという経験をしたという.その実験では1次コイルは大電流のために瞬間的に強力な磁石になったのだが,その後,それと同じような方法で強磁場を発生させるというのが実際に行われていることを知り驚いたそうだ.そしてそのような経験は容易に忘れることはなく,電磁気学の本を書くときなどに役立っているという.また,避暑に出かけたときに天の川を見たという経験も語られている.

清水明氏は,小中学生の頃,電子回路を組める玩具で遊んだり,ロケット花火を加工して遊んだりした経験を語っている.清水氏はそのように子供の頃に玩具を自作して遊ぶといった過ごし方をしたような人を「野蛮人」と呼び,一方,本を読んで過ごしてきたような人を「文化人」と呼ぶ.そして「野蛮人」と「文化人」とは基本的な考え方が違うと述べている.

以上例として2名をあげたが,他にも小さいころに工作・実験等をして自然現象と触れ合ってきた経験を述べられている物理学者の方は何名かいらっしゃった.このように小さい頃に自然現象と触れ合ってきて研究者になられた方が多くいる中,現在の環境はどうだろうか.現在は小学生の時から携帯を使うという時代である.今はそのような時代なので,工作したり何かを改造して実験したりするような子どもはほとんどいないであろう.私自身も小学生の夏休みの時などに工作して遊んでいたということは多少はあったものの,なにかを改造して実験するというようなことはやった記憶はない.若者の科学離れがよく言われているが,このような携帯などのものがあふれている時代は必然であろう.

また,自分の周りだけかもしれないが,最近実験が嫌いな人が多いような気がする.それは大学での実験科目のレポートを書くのがかなりしんどいからのような気がするが,実験というのは本来はレポートを書くという苦行を強いられるためにある(?)ものではなくて,上にあげた2名の例のように自分の興味の向くままに実際に自分で手を動かしてやってみるというようなものだと思う.だから,今の時代も昔のように工作・実験して遊ぶ子供が多ければ実験嫌いな人はそれほど増えていなかったような気がする.実験関係なしに理論を追求するのもよいと思うが,物理学は自然を扱う学問である以上,実験を軽視するのはよくないと個人的には思う(嫌いと軽視するのは別のことであるが).

以上,私は現在の時代の特徴としてものがあふれているということをあげたが,他に,文明の発達により文字通りの「自然」が失われているということを阿部氏はあげている.そのことについて,阿部氏は,

現在の夜空を見上げてもせいぜい3等星が見える程度で本来なら観測できるはずの天の川は全く見えない.物理学は言うまでもなく自然を相手とする学問であるが,本来なら見えるはずのものが見えないという現状はどういうものだろう.

と述べている.

また,清水氏は,今思えばかなり危険だったというロケット花火を使った遊びに対して,

しかし,これは本当にワクワクする遊びだった.それなのに読者に進めるわけにはいかないのが,辛いところである.こういうことをやってしまうのが,まさに科学者の卵なのではないかと思う.それを社会的(?)制約から禁止せざるを得ないご時世では,科学者の卵はなかなか育たない.

と述べている.

今の時代ではもはや工作・実験して遊ぶ子供を増やすというのは不可能に近いが,実際に自分で手を動かして自然現象を体験する機会を小・中・高校で上手く取り入れてほしいものである.しかし,化学や物理の授業で実験を一切しないような学校があるというのを耳にしたことがあるし,今の受験に特化したような学校教育ではそれは不可能に近いであろう.

教育

風間洋一氏は,ニューヨークの高校から来た,中学校の時の英会話の授業の先生に呼ばれ,高校の時,そのニューヨークの高校に1年間通った経験を語っている.中学生の英語力でアメリカの高校レベルの授業を受けるのはきつかったそうであるが,科目ごとに最適の学年で受講することができるというアメリカのシステムのおかげで救われたと述べられている.その1年間の海外の生活の後,日本に戻ってきて郷里の高校に復帰したそうであるが,型にはまった日本の教育システムが待っており,日本の高校の授業の大半は堅苦しく刺激にかけていたという.また,『ファインマン物理学』について物理の先生に質問をすると,そんなものは今やる必要はないと言われたそうである.

風間氏が述べているような海外と日本の教育の差は現在でもよく語られるようなことであり,風間氏の文章から,上記のようにここ数十年変わっていないことが伺える.You Tubeの動画『やや左側にかたよった教育番組』(バーバパパ)の中の今週のお便りコーナーの中で「平均化に徹底した教育や出る杭が打たれる社会に疑問を感じ…」というのが出てくるが,今の日本の学校教育はまさにその通りである.また,風間氏も述べているように,日本の小・中・高校では先の進んだ勉強をできるような環境にないというのが現状である.一部の学校ではそのような勉強をするような環境があるかもしれないがほとんどの学校ではそのようなことはないと思われる.私自身ももう少し中学校・高校で先の勉強をやっとけばよかったと後悔している.しかし,もし先の勉強をどんどんやっていたら今通っている大学に受かっているかわからない.受験の観点から見るとそのような勉強は”非効率"であるからである.したがって,そのような自由な勉強を許されるような環境をつくるためには受験のシステムも含めて教育システムを変えていかなければならないということになるが,なんとなく今の世の中を見ているとなかなか厳しいような気がする.

先の勉強ということを述べてきたが逆も同じである.わからないところがあってもそれが結局わからないまま強制的に学年が上がり授業についていけなくなる.まさに「平均化に徹底した教育」なのである.そのような学校の授業についていけなくなった生徒を教えるような個別指導塾は山ほどあり,そのような塾は儲かるかもしれないがそれも如何なものではないかと思う.学生にとって1日の大半を過ごすのは学校でありその学校での授業が全く分からなければかなり退屈であり勉強するやる気がなくなってしまうであろう.

話は少し変わるが,佐々木節氏は「ジェネラル・エジュケーション」について述べている.ジェネラル・エジュケーションとは,研究室の専門分野のみに偏ることなくできるだけ多様な分野を学ぶことであり,大学院に入学したときに勧められたという.そして先生の助言からランダウ・リフシッツのシリーズを必死に読み,それは実際研究するときに役立ったそうである.佐々木氏は次のように述べている.

特に,既存の分野を超えて何か新しい対象を考えたり,新しい方法論を見つけようとする際には,物理の基礎を幅広く「知っている」だけでも大きな意味があることを痛感している.

私も今の間は特に幅広い分野について学んでいきたいと思う.また,佐々木氏は,次のようにも述べている.

しかし,残念ながら最近は,ジェネラル・エジュケーションはあまり人気がない.その大きな理由は,博士課程の学生に対する日本学術振興会特別研究員制度にある.(中略)しかし現実には,学振特別研究員に選ばれるためには,修士課程,それもM1の間に研究論文が一つは完成している必要がある.そのため,M1でジェネラル・エジュケーションを受けている余裕がないのである.

これを読んで,この「教育」の節の初めに述べたような「平均化に徹底した教育」と同じような空気を感じる.小・中・高校だけでなく大学においてもそのような制度により勉強・研究が制限されるのである.ただ,それをああだこうだ言ってる場合ではないので今は支障のない範囲で幅広く学ぶことを意識していこうと思う.

錯覚

美宅成樹氏は,よく講義の雑談で蛇の心臓の位置がどこにあると思うか学生に尋ねるという.その位置としては頭・前から1/4くらいのところ・真ん中・一番後ろの4つの答えが大体出てくるそうである.そしてそれらの4つの位置を順にA・B・C・Dとして投票をさせてみるとD(一番後ろ)が不人気である以外は,どれも複数の賛同者がいるという.

その問題の答えは実は「AもBもCも正解」である.つまり,学生らは「答えはどれか1つである」という錯覚・偏見に陥ってしまっていたのである.さらに,面白いことに,科学者に対しても同じ質問をすると答えの傾向は学生と全く同じだという.そして美宅氏は,若い人たちへのメッセージとして次のようなことを述べている.

研究者を含め私たち人間は38億年の生物進化の産物であり,多くの錯覚・偏見からまぬがれない.そのことを意識して,勉学・研究を進めてほしい.そうすれば必ず独創性がついてくるはずである.

錯覚・偏見に陥ったという経験は誰でもあると思われる.私も思い込みにより実験の解析の序盤の方で間違っていて解析を1からやり直したという経験や,錯覚・偏見によって出題された問題の解答を根本から間違えたという経験もよくある.このように錯覚・偏見によく陥ることを「人間だから」と諦めるのではなくて美宅氏がおっしゃるように,そのことを「意識」して問題解決をするということを心掛けたいと思う.

錯覚・偏見に関連して,最近気になっていることがある.それはTwitterなどで「相対論は間違っている」「量子力学は間違っている」などと言っているような人たちを馬鹿にするような風潮である.物理を専門にしている人や物理を学んだことがある人がそれを自分で判断して「相対論・量子力学は間違っている」はおかしいというのは別にいいと思うが,私が問題だと思っているのは物理を学んだことがないような人が自分で考えることもなく馬鹿にしている場合がそれなりにあるということである.そのような人たちは専門家の人を含む周りの人がおかしいといっていることからそれに便乗しておかしいと言っているのである.つまり,「専門家の人の意見は絶対に正しい」あるいは「既に完成された理論というのが絶対正しい」というような錯覚・偏見に陥って自分であまり考えることなく脊髄反射的におかしいと言って便乗するのである.

もっともそのような「相対論・量子力学は間違っている」というのはほとんど全ての場合正しくなく,そのような脊髄反射的におかしいと言っているような人は結果的に正しいということになるのだが,何も自分で考えることなく判断する人が一定数いるというのは問題だと思う.この例に関してはごく稀なことかもしれないが,専門家が間違えることだって山ほどあるだろうし,既に完成された理論が実は間違っていたというのがもしかしたらあるかもしれない.

当たり前のことかもしれないが,大切なのは他の人の意見や理論などを鵜呑みにするのではなく「自分で考えて納得する」ことだと思う.巷に「量子力学コーチ」的なものが溢れていて信者がそれなりにいるのだが,そういうものを信じるような人は本当に正しいかを自分で考えるというのを放棄しているのであろう.

そしてそのような「自分で考えて納得する」ということを放棄する人が多数いるというのがなぜかというのを考えると義務教育(+高校)で批判的思考というものをする機会がほぼないからだろうと思う.大学で専門書を読んでいると誤植だらけでたまに根本的な間違いを含むこともあり,すべてをそのまま鵜呑みにするのではなく一つ一つ自分で考えて納得して進めるということをせざるを得なくなるが,高校までの教科書は誤植がほとんどなく,そのような読み方をしなくても読めてしまう.それで数学などで公式を理解もせずにそのまま暗記してしまうような人が一定数生まれるのである.

だからといって高校までの教科書でわざと誤植を入れた方がいいとは全く思わないし,何か方法を提案しろと言われても特に画期的なアイデアが思い浮かぶわけでもない.そしてこの文章を書いている私自身もなにか錯覚・偏見に陥っているかもしれない.

人との出会い

最後に,本書には20名の物理学者それぞれがどのような人と出会い,その出会いがどのように影響を与えたのかが詳しく書かれている.そして,そのような出会いが物理学者の道を目指すのにつながっていたり,また,出会った人との議論等が研究に直結していたりしている.

現在のコロナ禍で,コロナが広まる前に比べて人との出会いが制限されている.私が2回生の時,ほぼすべてがオンライン授業であり,他人と会い,議論するというのがほとんどなかった.3回生の今,対面での活動の制限が徐々に緩められ,対面で友達と何かを議論するというのができるようになった.2回生の時はあまり意識していなかったが,やはり対面で友達と議論するのは楽しく,1人で勉強するのに比べて友達と議論する方が自分で1人では思いつかないような考え方を知ることができ,理解が深まるということを実感している.そしてそのような議論できる仲間を大切にしていきたいと思っている.

本を読んで思ったことをだらだらと書いてしまいまとまりのない文章になってしまった.そんな文章を最後まで読んでくださった方々に感謝したい.


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