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津堅島の家の名前#2 意味の媒介|Studies

人は名前をつけることによって生活空間を分類するが、この「名づけ」から人々の世界観が看取される。屋号に人々の観念がどう反映されているのかについて考えてみよう。


沖縄の方位観

沖縄の一般的な村落のあり方としては、「北側に冬風を防いでくれる丘を背にし、それに拠りかかって夏の南風に当る日当たりの良い南側に立地している村落が多」く、そうした「丘に御嶽が存在するのが多数である」。そして、「村落の中央部の最上部(つまりは最北 ※筆者註)・・・に、その村の大宗家の家が位置している」ことが理想とされ、その場合はそこから「一段下がった左右に次位の宗家が並列」し、その分家群は「主家の下方前面に末広がりの形態に配置されている」のである(仲松1968)。すなわち、御嶽という宗教的権威を後ろ盾として、北から南へと家々を展開していくのが、沖縄の村落形成のモデルとされている。

一方で、東方浄土思想、いわゆるニライカナイ思想による東の神聖視が、村落構造のうえに見逃すことのできない影響力を及ぼしている。それは農耕儀礼の場面において顕著に表われ、一村落が東と西の二つに分かれることがしばしばである。そうした北―南、東―西の二元的対立は沖縄村落の構造的特質とされ、その様々な地方変異の分析が過去には進められてきた(馬淵1974、村武1975など)。

津堅島の方位観

ひるがえって、それらの成果を津堅の現実と突き合わせてみよう。そもそも津堅(の旧家群)では西―東のラインに主軸が置かれ、それに伴って家々の展開する方向も異なっている。つまり、村落構造の基本となる心棒が、理念型より左に90度ずれているのである。そのため農耕儀礼における地域区分も東西ではなく南北で分けられており、それに対応して祭祀の司祭者もこの区分にしたがって選出されている(注1)。

ところが、これだけをもって村の方位観を定義することはできない。そこには別の基準が介在しており、そのことが津堅における方位認識の理解をいっそう困難にしている。

多くの沖縄の村落では、家屋は(民俗方位での)南向きに建てられるが、津堅もその例外ではない。民家の配置、間取りや門の位置は、大体において沖縄の民家の機械的モデル(渡邊1985)と符合する。分家群も戦後は地形や交通上の便利さから南側に拡張している。そして、先の北―南の対置(理念型の東―西に対応する)は、こうした日常のレベルでは後―前の対置と同一視される。すなわち、北と後、南と前は等価の関係に置かれるのであるが、この構図はまさに沖縄村落の理念的民俗方位観と合致する。

津堅の場合はつまり、日常生活の場面では一般的な沖縄の方位観で思考しているのに対し、儀礼生活の場面では独自の左ブレ方位観にしたがって行動している。しかも島ではこの点に疑問を持つ人は一人もいない。島の人々の地域の二元的対置の表現は、「イー」(上)と「メー」(前)なのである(注2)。「イー」はここでは「クシ」と置換できる語であり、それは北側が南側に比して海抜高度が高いという地形に起因している。

家々の派生と展開

ここで再び村落の展開論へ話を戻す。津堅ではこのように最初は東に、それから南へと村落を広げていったが――あたかも数字の7を書くように――、その結果西や北にはこれらの分家を送りだした本家群が残った。それならば、なぜ北を意味する「イー」や「クシ」が屋号の一部として存在するのだろうか。これらの接頭語を必要とする分家は北にはないはずでは、という疑問が生じるのは当然であろう。

これにも説明を加えておかねばならない。「イー」や「クシ」は村の創生期を担った本家から直接分家した家ではなく、世代を経て分節が行なわれ、新たに本家とみなされるようになった家からの分家が用いる修辞である。こうしたいわば二次的分家は、少なくなった屋敷地を求めて北側にも進出するようになった。また、二次的本家からの相対的な位置という基準で用いられるならば、実質的な北に所在しなくても問題はない。

このような複雑な方位観の一端が屋号に表象されており、それゆえ我々は屋号研究をとおして彼らの世界認識の秩序を垣間見ることが可能になる。

系譜の記憶装置

屋号に現れる系譜的観念については、「分家とは、原家から排出された者が、新しい世を創始し、原家との家筋階序の地位を設定することを意味している」のであればこそ重視される側面であろう。分家の屋号を設定することは、その動機がいかなるものであれ、多くの場合、「家筋と血筋の本・末あるいは直・傍系の関係を表現する」結果となる(村武1974)。

接頭語、接尾語を付与していること自体が分家の史実を隠喩しているし、同時に語幹のみの本家の中心性を無意識のうちに正統化している。分家した当事者の名前を冠している屋号は、その個人に関する文字情報や伝承、人々の記憶が残っている限り、分家した時期を明らかにしてくれる。次男・三男…などの年序が含まれる屋号は、その家の系統を教示してくれる。

また、門中の総本家の屋号とその門中を構成する家の成員の姓が一致すれば、本家が父系出自における直系に位置することを傍証している。空屋敷に移転した家族が、その屋敷が保持している屋号で同定されるという事象も、〈ヤシキ筋〉の親族理論にはかなうものである。

このように屋号には親族関係の媒介項としての役割が内在されているのである。

おわりに

社会的マーキングとしての屋号の意味は、村の祭祀職やサービス業などのように、人々が社会生活を営むうえで不可欠の重要性が公認されている場合のみ現われる。その場合、もはや親族関係を越えたところで家の個別性が与えられている。実際にこのカテゴリーに属する家には、かつては親族関係に基づく屋号を有していたが、職業・役職の屋号に置き換わったという例が多い。

なお、本論の考察とは直接結びつけなかったが、筆者は今回の調査で「屋号は自家を他家と区別するためのツールであり、究極的には村落社会内で家アイデンティティを確立する目的をもつ」という感触を得たことを附記しておく。

<注釈>

  1. 津堅の祭祀組織は津堅・神谷それぞれにヌルひとり、 ニーガミひとりを選出し、その他の司祭者も均等に割り振られている。しかし、実際の儀礼はほとんどが合同で行なわれており、実質的には一組織の印象を受ける。

  2. 儀礼の祝詞では、両地域組の公称である「チキンムラ」(津堅村=「イー」) 「カミヤムラ」(神谷村=「メー」)と唱えられる。

<参考文献>
仲松弥秀 1968 『神と村――沖縄の村落』琉球大学沖縄文化研究所
馬淵東一 1974 「琉球世界観の再構成を目指して」『馬淵東一著作集3』社会思想社
村武精一 1975 「南部琉球における象徴的二元論」『神・共同体・豊穣――沖縄民俗論』未来社
渡邊欣雄 1985 「家屋にみられる象徴的秩序と塑形的モデル論」『沖縄の社会組織と世界観』新泉社

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