タンメー隠してねェ へそくり♪ それが沖縄の家の カラクリ♫|Field-note
ただ意味もなく韻を踏んでみたが、今日の記事は、2007年に伊是名島にて実施した古民家調査の再録である。後世にデータを残すためなので、建築に興味がある人以外にはつまらないと思う。それでも読んでくれる方は、「アナタいい人だね ロンサムボーイ」です!
伊是名島の住居の歴史
①アナヤーの時代
伝承の限りで伊是名の最も古い住居形式として記憶されているのはアナヤー(穴屋)である。アナヤーは、地盤に柱穴を掘って丸太や石柱を埋め込んで建てた家であり、地元では「古い簡易な住居」、ときには「粗末な掘っ立て小屋」というようにマイナスイメージで捉えているようである。
琉球王国時代の敷地家屋の制限令(1737年)によって、百姓の住まいはこの様式に限定されたため、昭和初期まで続いた。アナヤーに関する伝承はあまり得られなかったので、主に『伊是名村史下巻』に基づきながら概要を整理する。
屋根は、小丸太をワラ縄でしばって小屋組みをし、丸太の間にはアムン(編物)を貼りつけてその上からカヤやワラで葺いたという。壁は、竹を網のように編んで内外の二層構造とし、その中にワラまたはカヤを詰めて締めつけてある程度の強度を持たせた。床は、土床に単にワラのムシロを敷いた場合もあったが、竹や松板、杉板をつぎはぎに敷き詰めて体裁をなした。
②ヌチジャー・カワラヤーの時代
明治22年に敷地家屋の制限令が廃止され、住居の建築は自由化され、本格的な木造住宅のヌチジャー(貫木屋)及びカワラヤー(瓦屋)がアナヤーに替わって一般化する。その違いは屋根の材質と勾配にあり、ヌチジャーはカヤまたはワラ葺きで、屋根勾配が急である(カヤ葺きの家を方言ではハヤヤーと呼んだ)。
また、ヌチジャーは台所を別棟にするという意見もある。ただし、他の地域ではヌチジャー形式のカワラヤーもみられたということであり、構造上の違いで分類すべきではないのかもしれない。
建築方法としては、最初にイシジ(礎石)を置き、その上に柱を立てる。柱にはヌキミー(貫穴)などと呼ばれる穴を開け、そこに貫木を通して柱をつなぎ合わせ、それを楔で締めつけた。
なお、ヌチジャー構造になってアマハジ(雨端)が現れた。アマハジは上部を桁でつないで作成するもので、アマハジ桁と縁桁、さらに縁側の奥のムーヤバーヤという柱を横材でつないで耐風補強としたものである。
首里や近隣ではヌチジャーのあとにカワラヤーという流れが比較的明瞭だが、伊是名の場合は遠隔ということもあり、どちらもほぼ同じ時期に導入されたとみることができる。ただし、ヌチジャーからカワラヤーに建て替える事例があったというから、カワラヤーのほうが品格や利便性などの面で優れていたということであろう。
伊是名で最初にカワラヤーが建てられたのが明治30年頃のことであり、現存(当時)する前川瓦屋である。同時期にいくつかのカワラヤーが建てられ、そのいくつかはやはり現在もみられる。ヌチジャーの最も古い家は確認できなかった。
③スラブヤーの時代
沖縄本島では、戦後の混乱期に米軍統治下において住宅確保のための応急措置として規格住宅が建築されたが、大きな戦火が少なかった伊是名島ではそのような光景はみられなかった。
しかし、戦後復興で建てられた木造住宅は台風に弱く、多くの被害が出たことに加えて、戦前に台風から家を守ってくれた屋敷林や石垣は戦火でほとんどが失われたため、その後は台風に強いコンクリート住宅が急速に普及した。このコンクリート住宅をスラブヤーと総称している。伊是名でも昭和27年に初めて建設されてから主流化しており、近年新築される住宅のほとんどがコンクリート造である。
コンクリート住宅は補強材によって鉄筋、鉄骨があり、またブロック造のもの、木造を組み合わせたものなどのバリエーションもみられる。伊是名では鉄筋コンクリート、鉄筋ブロック、鉄筋ブロック+木造が比較的多く分布する。
屋敷内の建物配置
伊是名島における屋敷内の建物配置は特に際立った特徴があるわけではなく、県内の他地域の情報をもって一般的な理解に代えることができるが、以下の点について注釈的に報告しておく。
屋敷は奥行きよりも横幅が少し長い長方形で、多くの場合150~200坪の広さである。
屋敷を構成するのは、かつては母屋、トングヮー(台所)、ウシンヤー(家畜小屋)、フル(豚舎)であった。裕福な家ではアシャギ(離れ)もあり、若夫婦などが用いた。
現在の認識では、家屋は母屋と家畜小屋(現在は倉庫や物置、トイレなどに利用)とに分けられる。
屋敷は南向きである(実際の方位は南西)。伊是名区では門も南向きだが、勢理客区の場合は門が東向きや西向きに設けられることもある。これは道路と接道するためであり、勢理客区では集落内での家屋配置が二列構造をなしているためである。
屋敷の酉の方角に井戸を掘る。伊是名は地下水が比較的豊富なので、井戸を掘る家が多かった。
母屋の前庭をヤーヌメー(ヤールメー、ヤーラメー)といい、東側をニワ、西側をヤーシバーという。米の収穫後にはヤーヌメーにコモを敷いてモミを乾燥させた。コモがあれば、日差しが強くても米粒は割れなかったが、乾燥するのは遅かった。
屋敷の裏側をアタイとして野菜や糸芭蕉を植えたりすることがあったが、日当たりが悪い場合は前側につくることもあった。
屋敷は石垣やフクギやブッソウゲ、イヌマキ、クロトンなどの垣根で囲む。フクギは防風にも火事にも強かった。
石垣は風が通るから台風に強く、壊れるときも一部だけである。しかし、ネズミの巣になりやすい。最近のブロック塀は、石垣のこの特徴を受け継いで、穴があいたものを使ったりする。
門と家屋の間に雑木を植えたりして、ツラカクシ(ヒンプン)とするが、他の地域に比べると伊是名は少ない。
民家の間取り
下図は比較的裕福な民家の間取りである。表が一番座、二番座、三番座から構成されるため、裏座もその分広くなるのが常であった。表の各部屋は概ね4.5~6畳、裏座はそれぞれ3~4.5畳程度であった。
1.イチバンザ
一番座。カミザ(上座)ともいう。床の間がある。主人夫婦が寝起きし、客が来たときにはこの部屋に通される。
2.ニバンザ
二番座。仏壇がある。年頃の娘などが寝起きする。
3.サンバンザ
三番座。長雨の際にはここで稲を干したりする。また米の貯蔵に使われたりもした。カイコを養う場所でもあった。
4.トングヮー
台所。他の部屋よりも一段低くなっている。ヒヌカンがある。アナヤー、ヌチジャーの頃は別棟で造られた。
5.ウラザ
裏座。家の裏側の部屋をまとめてウラザといった。豊かな家では奉公人などが寝起きした。また子どもの勉強部屋などにも使われた。
6.同上
ジュール(いろり)のある部屋。ウラザの一部であるが、この部屋にはいろりが置かれ、天井からやかんや鍋を吊るし(自在かぎ)、お茶をわかしたりおじやを作ったりした。お産もこの部屋で行われた。
また、家屋の前面に(ときには東面にも)アマハジ(雨端)という軒を設けたが、これは夏の日差しをさえぎる効果があり、雨の日に稲の脱穀等の作業をするのにも都合がよかった。近所の人が訪ねてユンタクするときにもこの場所が用いられる。カヤ葺きの家でこの軒の部分だけ瓦葺きにした家もかつてはあったらしい。
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