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沖縄そばは商業化された当初から、店で手打ちする自家製麺であった。上記で「琉球初」なんて書いているのは明らかな誇張である。
しかし、戦後の復興期からそば屋の数が増え、製麺を専業として行う業者の数もまた増えていった。その需要を牽引したのが、建設業従事者の昼食利用である。この時期、戦争被害からの復興をめざした琉球政府による公共事業、朝鮮戦争とベトナム戦争を契機とした米軍基地建設の強化など建設業が伸長していた。
製麺工場建設の記事
製麺工場建設の記事2篇をご覧いただこう。なんだか景気がいい話だ。
首里に製麺工場/今日試運転/月産二万ケース
西森製麺工場が首里に建設され、1955年1月5日に試運転が始まった。
工場敷地は約1,000坪と広く、2階建て建坪360坪で、120坪の乾燥場を備える。
工場地下に1万箱を格納する倉庫を有し、製麺から乾燥まで近代的な設備で行われる。
2基の製麺機を追加し、沖縄の毎月消費量の75%を自給する計画。
自動乾燥装置を設備/充実するオキコ製麺施設
オキコ製麺工場(真和志市寄宮)が拡張工事を経て完工。
この工場は最新の田中式製麺機2基を備え、日本でも稀な自動乾燥装置を導入している。
約4時間で一巡する間にそばが完全に乾燥する。
現在は約600ケースを生産し、これは全県消費量の約30%に相当する。
県内製麺体制強化の光と影
県内での沖縄そばの麺製造の能力は上がり、ほぼ自給できる状況になった。だがその反面、乾麺や麩の生産にはマイナスの影響も及ぼしている。
増大する小麦粉の需要/麺類の輸入は下落辿る
島産品を育てよう終/粉とメン/1キロ入小麦粉近く発売/粉、麺とも自給の域/四苦八苦続ける乾麺業者