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津堅島の年中行事 7月|Field-note

沖縄県の現うるま市津堅島で、1990〜1991年当時あるいはそれ以前に行なわれていた年間の行事や祭祀等の採集記録です。不定期に掲載します。


タナバタ(旧暦7月7日)

津堅においては死者供養は33年忌まで行なわれず、死後十数年(明確な決まりはないという)のちのタナバタをもって完了する。以後は個性を失った祖霊として一括して祀られるのみである。ただし、位牌には故人の名前を留めている。

したがって、葬式後の死者供養としては、3日、初7日、49日、ミージュールクニチ、1周忌、それに毎年のタナバタと、他地域と比べて著しく簡素である。

儀礼そのものも簡略的で、集まった人が焼香するだけである。この儀礼を手伝っていたのは、当家のエーカ(イシムンではない)の範囲にあたる人であった。墓参りや死者の見送りなどはない。

シチグヮチ(旧暦7月13~15日)

13日:ウンケー
午後になると、家族のうち1名以上が墓へ行き、同じく集まった門中(津堅ではイシムン)の成員、あるいは墓を共有する人々と一緒に墓掃除をする。掃除が済むと皆で手を合わせ、「スーカラシチグワチャイビークトウ、ヤーニメンソーリチシチミソーリヨー」といい、祖先の霊を迎える。

家では家屋の南東の角、もしくは東側の縁側や窓の下に水を入れた桶が置かれている。祖霊はこれで手足を洗うのだという。仏壇にはすでに供物、サトウキビのグーサン(杖)、アダンやスイカ、パイナップル等の丸い果物類(これらは祖先の交通手段だという)が供えられており、平線香2本を灯し、ウチャトー(お茶を供えること)をして祖霊を歓迎する。夕食時には仏壇にも食事を供える。

14日
盆期間中は全ての食事を仏壇に供える。

また、同じ門中の成員だけでなく当家を中心としたエーカや故人の縁者もウサギムン(ここではお中元の意)を贈答しあう。ただし、新盆を迎えた家ではウサギムンを贈ることはない。贈答の際には焼香を行なう。

15日:ウークイ
夜になると、同じ門中の人同士が訪問しあう。これをティーウサーといい、最初に宗家に行き、次男バラ、三男バラと順に回るのが本筋とされていたが、現在は順番は自由である。実際には門中ばかりでなく、エーカも含まれているようである。訪問の際は焼香を行なうが、このときは台湾製のアカウコー9本を用いる。またこの日の供物は豪勢であり、訪問客と共食する。

これを終えて明け方近くなった頃、祖先をウークイする。まず、家族全員で仏壇、二番座の入口で拝んだ後、ミンダレー(洗面器)に水を入れ棒を渡し、その上で紙銭を焼く。そのあと供えていたグーサンウージやアダン等を庭に転がし、残った供物から何品か取り出し洗面器に移して、これらを屋敷の隅に捨てる。四隅のうちの当家の墓の方角である。津堅では南東か南西のいずれかになる。同時にガンシナ(サンニンの葉を鎖状に5~7連つなげたもの。祖霊がお土産を頭にのせて持って帰るためのクッションだという)、線香、香炉の灰の一部も捨てる。そして盆が終わったことを告げ、祖霊を送る。

次の日は盆用の飾りを片付ける。

15~16日:エイサー→消滅
かつては15日から16日にかけて、夜どおしエイサーを踊ったという。カンサギ→神谷殿内→ヌー殿内→ター殿内の順で踊りを奉納したあと、時計回りに村中を巡回し、招かれた家々で踊る。ただし、新盆の家では踊らせることもその親族がエイサーに参加することもない。巡回が終わったあともシキルンチマーにて踊り続ける。

若年人口の流出によりエイサーは途絶えたらしい。

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