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津堅島の年中行事 12月|Field-note

沖縄県の現うるま市津堅島で、1990〜1991年当時あるいはそれ以前に行なわれていた年間の行事や祭祀等の採集記録です。不定期に掲載します。


ムーチー(旧暦12月6日)

シワシムーチー(師走鬼餅)ともいう。

餅の原料はンナムギ(小麦)、あるいはアワ(粟)とンム (さつまいも)である。麦、粟をピキウシ(引き臼)にかけて粉にし、ゆでた芋を混ぜて練り合せる。黒糖を入れ、甘味を加えたりもする。これをサンニン(月桃)の葉やユーナ(オオハマボウ)の葉に包んで蒸す。

その煮汁は家の門ロや入口にかけ、マジムン(魔物)除けとする。できあがった餅は仏壇、ウタナー(神棚)、二番座の入口に供え、平線香(ヒラウコーという。6本がセット) 2本を立てて、家族の健康を祈願する。

また、この日はこどもたちがウルマンチャーという人形を作る。芭蕉の茎で胴体を作り、ユーナの枝を差して手足とする。弓矢を持たせた方を男人形、なぎなたを持たせた方を女人形とする。

餅ができるとこの人形のロに付け、サンニンの葉と一緒に家の南側の軒下に掲げ、魔除けとなす。夜になると闇に紛れて近所のこどもたちが人形を取りに来る。

翌日、こどもたちはウルマンチャーシミエーという遊びに興じた。「ウルマンチャー シミティ、モウキティ、ササヒヤルカへ」と唱えながら、人形を二体合わせて空中に放り投げ、上になった方が勝ち、負けた人形をもらうというルールであった。

正月準備(旧暦12月下旬)

12月も差し迫ってくると、各家庭では正月の準備に追われるようになる。

シシハライ(煤払い)といい、一年間の家中の汚れを落とす大掃除を行なう。ソテツの葉を竹の先に括りつけ、天井や壁などを掃く。津堅では火の神の昇天はなく、シシハライは24日に固定しているわけではない。

また、着物、下駄など正月の必需品を買いに屋慶名まで買い物にでかけた。これをショウグヮチゴーイムーという。

正月の準備としてかつて最も重要とされたのが、正月用の豚の屠殺であった。各家庭で、あるいは数戸が共同で一頭の豚をつぶす。家屋の西側にある豚小屋の傍に藁、茅を敷き、豚の後ろ足を縛って棒で固定したのち、屠殺作業は行なわれる。

一人が豚にまたがり頭を押さえつける。首から心臓へと刃物を突き刺して即死させる。首にはユートゥイ(サバニに浸水した水を汲み出すときに使う道具)を据えて流血を集める。この血はサバニの塗料としても用いられる。

死んだ豚はうつぶせにして、熱湯を背中からかけて体毛を取る。それが済めば数名で近くの浜まで担いで行き、そこで肉をぶつ切りにし、内臓を取りだして丁寧に洗う。この肉は正月に食するほか、残りは樽に入れ塩漬けにして保存する。この日はチーイリチャー(豚の血を混ぜた炒め物)をつくって仏前に供えた。

また、お歳暮としてのウサギムンを贈答する慣行もある。仏壇に供えられるものであり、その贈答関係は故人と血縁関係にある者を基調にしている。ウサギムンは12月ではなく年頭挨拶のときに持参されるケースも多い。贈る品として昔は、お茶、煙草、素麺などが好まれた。

トシヌユルー( 旧暦12月31日)

正月飾りを施す日である。仏壇(3か所)、神棚に赤・黄・白の色紙(これをウシカビという。銭型が型取りされた)を敷き、みかんをのせた。床の間にはさらに炭と昆布も添えた。平民層は赤紙を、士族層では黄紙を一番上にした。

ショウガチジナといい、若者たちは近くの浜で砂を集め、庭や道に撒いて清めた。厄日の観念が窺える。

かつてはこの日に火の神に対して1年間の感謝(火の神昇天)がなされていたという。現在は火の神は拝まないが、これは島に入ってきた新興宗教の影響だと考えられる。

この日はまた正月料理の準備を行なう。正月料理には豚肉、魚各種、タコ、豆腐、かまぼこ、てんぷらなどが調理された。夜はこれらを仏前に供える。なお、この日の夕食に用いた食器や鍋は、洗わずに次の朝まで置いておいた(理由は不明)。

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