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帝国主義的ノスタルジーについての文章を与謝蕪村に批評してもらいました|Critique

昔書いた帝国主義的ノスタルジーについての文章を、OpenAIのChatGPT(無料版)に批評してもらいました。ただし、郷愁の詩人 与謝蕪村が批評するとしたら、という条件付きです。

実は最初に『オリエンタリズム』の著者エドワード・サイードに批評してもらったのですが、八方美人の至極まっとうな内容で面白みに欠けていたので、次に『郷愁』や『車輪の下』を書いたヘルマン・ヘッセにお願いしたところ、論理破綻の支離滅裂な批評になってしまいました。そこで思い切って与謝蕪村では?という条件を出しました。与謝蕪村っぽいかはさておき、私はこの評価が好きです。


被疑者となる文章

「帝国主義的ノスタルジー」について今福龍太は、その概念の創始者であるレナート・ロサルドに依りながら説明する。先進社会の「進歩」というイデオロギーは、それによって破壊される側にある「伝統」という準拠枠に支えられている。人類学は先進社会から発していながら、「伝統」を紙の上に復権させることをなりわいとする。そこには先進社会がすでに失ったものに対する、ノスタルジックな憧憬が潜在的にある。伝統文化をあるがままに記録し保存しようとする「無邪気な」情熱はとりわけ、「『無罪』をよそおった破壊として、帝国主義的ノスタルジーに近づいていく」のである。

今福のこの批判は、帝国主義的なノスタルジーだけを対象としているのか、それとも人類学者が抱くノスタルジーにはすべからく帝国主義的要素が含まれるといっているのか、が私にははっきりしない。ここで「帝国主義」という比喩がもちだされているのは、自らの価値基準で伝統を切り捨てながら、逆説的にそれを懐かしんでしまう先進社会の身勝手さを指してのことだと思われる。

一方の「ノスタルジー」は、自文化と他文化の間を漂う故郷喪失者としての人類学を憐れむ表現ではないか。人類学者がなくしたものは伝統ではなく、文化に対する帰属心そのものである。人類学者は不幸を囲っているのではなく、まぎれもなく不幸であり、その意味では、伝統文化破壊の確信犯というよりむしろ被害者の一人だといえる。文化を越境したことのツケは思いのほか大きい。

あるいは今福が後者の意味で「帝国主義的ノスタルジー」と言うのなら、それは人類学が帝国主義だと言っているに等しい。これは自滅への言句である。実はこの過剰な自虐が、人類学を「『無罪』をよそおった破壊」という負のフィードバックに向かわせている。そうであってはいけない。

私は伝統文化の記録や保存は、先進社会に属する人類学の贖罪でありたいと思っている。そう考えなければ、むやみやたらな開発や近代化への反論もできなければ、仮想の「帝国」から独立することもできやしない。人類学は今や少数文化至上主義を唱えなければ、現在的な諸問題への発言権を失うところまで来ているのではないかと思う。


与謝蕪村による批評(仮想)

与謝蕪村の視点からこの文章を論評すると、彼の俳句の精神や感受性に基づいて次のように考えられます。

帝国主義的ノスタルジーと文化の美
与謝蕪村は日本の俳句の伝統を大切にし、自然や日常の美しさに敏感でした。この文章の議論において、帝国主義的ノスタルジーについての批判が提示されていますが、蕪村の視点からは、文化や伝統の美しさを失うことは重大な損失と捉えるでしょう。彼は、文化保存の重要性を強調し、伝統を懐かしむことが単なるノスタルジーではなく、文化の美を称賛する手段であると考えるでしょう。

文化的な郷愁
与謝蕪村の俳句には、日本の自然や風景への深い愛情が表れています。この文章でのノスタルジーについての言及は、蕪村の詩的感性に共鳴するでしょう。彼は、異文化と接触する際に感じる文化的な郷愁や喪失感を理解し、共感します。彼の詩の中には、風景や自然の中での喪失感がしばしば表現されており、この議論の文脈に適しています。

自己批判とバランス
与謝蕪村は、自己批判を重要視しました。彼の俳句は、単純な自己満足ではなく、内省と調和を求めるものでした。この文章の中での自己批判の必要性にも賛同し、バランスを保ちつつ、異なる文化との接触においても自己を見つめ直すことの重要性を説いているでしょう。

文化多様性の尊重
蕪村は自然界や日本の風景を詠んだ俳句を通じて、自然と文化の多様性を称賛しました。この文章の中での文化多様性の尊重にも同意するでしょう。蕪村は、異なる文化や伝統の多様性を尊重し、共存することが重要だと考えるでしょう。

与謝蕪村の視点からみると、この文章は文化の美しさと多様性を尊重し、自己批判とバランスを保つことの重要性を強調しています。

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