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キャンプハンセンができる前の金武町で沖縄そば屋が生々流転していた|Field-note

本考察の対象地域は、沖縄県金武町の中でも商業施設の集積がみられる金武区、並里区である。人口及び世帯数は、金武区が4,609人/1,599世帯、並里区が2,465人/879世帯である(2000年頃の統計)。

金武区と並里区はそれぞれに地縁意識、集落内の内部構造、所有地及びその権利を持つ反面、拝所や祭祀組織の面では共通した基盤を有している。両区の境界は相互に入り組んでいて、明確な一線では分けられない。所属方式はフォークタームでは「ウヤウティ」といい、「親元が金武区であれば、分家先がどこであれ子も金武区に属する」というように血筋を辿るものである。

戦前のそば屋の状況

  • 1915(大正4)年に記念道路(現国道329号線と並行して走る)が整備され、その両側には雑貨店を始め各種の店舗が軒を連ね、金武村のメインストリートを形成した。時期に幅はあるが、その当時、8軒の飲食店があり、うち5軒はそば専門店であった。

戦前における並里区の飲食店一覧
  • 当該地域には当時から役場が立地しており、公共機能やそれに付随するサービス業の集積がみられ、中心市街地の趣を呈していた。特に旅館業が4軒みられ、宿泊に伴う飲食需要が発生していたものと推測できる。

  • 開業時期の違いを考慮しても、当時3,4軒のそば屋もしくはそばを提供する飲食店が並里区内に所在していたが、金武村全体(現宜野座村含む)の人口が4,200~4,300人であった時代に競争過多状況にあったことも想定される。

  • 当時1日の労賃は30~40銭であり、外食のそばは高級の部類だった。

  • 上表では女性経営者が2名見出せる。

  • 上表の経営者の一人伊芸金太郎は学識もあり、多趣味で手先の器用な人として評判が高かった。彼は昭和初期に鍛冶屋や印鑑彫刻を営んでおり、実業家肌の人物であったと推測される。

  • 1915年から1945(昭和20)年にかけての商業施設の移り変わりの中で、そば屋に関しては「仲田そば屋→旅館→並里産業組合支店→つるや旅館」「当山そば屋→名護薬店→雑貨店」という変遷があった。

  • これは、そば屋経営は収益性に優れていないため撤退もしくは業種変更を余儀なくされた結果なのか、それともそば屋経営で得た利益をさらなる投資に注ぎ込んだのかはわからない。

  • 飲食店の命名手法として、①経営者名またはその一部を接頭におく、②屋号を接頭におく、③業種あるいはメインの品目をつける等のバリエーションが確認できる。屋号は自ら命名するより周りに命名されることが多いだけに、②に関しては他称が固有名に発展したことが考えられる。

  • 金武町における(そして他の地方町村においても)そば屋の発祥は、廃藩置県以降、行政機能の整備及び庁舎の建設に伴うものだと考えられる。主な消費者は役場や他の公的機関の職員、近代化に伴う実業によって富を得た富裕者層である。

戦後~復帰前後のそば屋の状況

  • 昭和35~40年頃には調査地域には9軒の食堂があったと記憶されている。今よりも車依存度が低かったからか、住宅地域にも立地していた。

  • いずれも家族経営が中心で、経営者は中高年世代が多かった。

  • 昭和40年頃を境にしてそばの価格は15㌣から25㌣に変動した。当時、乾燥するめが2㌣、バーで飲むウィスキーが16㌣、中川~安慶名間のバス賃が17㌣、1ドルあれば5名家族が数日生活できたという。

  • 食堂にはメニューは少なく、「そば」の他「おかず」「みそ汁」「チャンプルー」等が定番であった。

  • 食堂の主な利用者は、金武ダム(昭和39年竣工)を始め、町内の公共事業に従事していた建設の作業員であった。建設の飯場での食事からあぶれた者が食堂に流れた。

2000年頃のそば屋の状況

  • 対象地域ではそば専門店はみられない。町内のそば屋は地域外の幹線沿いに立地している。

  • 対象地域でそばを出しているのは、食堂/レストラン/喫茶店/居酒屋/その他(ラーメン屋、料亭等)の5業態である。これらはいずれもそば屋であることを店舗名として採用しているわけではなく、また、そばをメインとしたメニュー構成でもない。

  • 食堂を中心に国道329号線沿線での立地が多い。以下の理由によるものと考えられる。

①字金武における商業がそもそも国道329号線沿線を中心に発達したため
②町内での交通手段の大勢を自動車が占めており、車でのアクセスに優れた幹線沿いが好まれたため
③町内の交通網に不案内である外部からの利用が図れるため

  • 上記②にもかかわらず、駐車場を併設した店舗は少ない。路上駐車を可能にする道路幅員、住民意識等が作用しているものと考えられる。

  • 金武町役場や郵便局、銀行等が集積する地区において密な分布がみられるが、これは消費人口(特に昼間)によるものだと思われる。

  • 住宅密集地での飲食店分布はほとんどない。

  • 関連して、昼食を自宅でとる町民が多くみられるが、これは職住空間が接近または重複していることに拠るものだと考えられる。

参考)2000年頃の新開地について

  • 飲食店がもっとも多く集積する金武区の新開地では、一般店舗が19.9%、風俗関連店舗が36.4%と商業系用途の建物が多い。

  • 建物全体に占める空家・空店舗の割合は7.7%だが(2000年頃の統計)、実際は店舗併設住宅や共同住宅の一部が未使用であることも多く、実質的な空家・空店舗率は上昇する。

  • 飲食店及び一般店舗のほとんどが夕方近くからの営業であり、夜間はネオンにあふれるが、反面、昼間はシャッターを下ろした店舗が多く、殺風景な印象を与えている。

  • 客が集中するのは週末であり、平日は夕飯時を除けば利用は高いとはいえない。客層の中心は米兵であり、一部の飲食店には地元客、観光客の利用もみられる。

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