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転生してみたら、受験も就活もない社会だった : 👶『競争のない社会最高』

「おぎゃ〜」

どうやら、前世の記憶を引き継いで転生したらしい。

生まれるやいなや
赤子がたくさん収納された部屋へとぶち込まれた。僕らには、ABCDFという5つのラベリングがされていく。
僕のラベルはFだった。

......思えば、前世は最悪だった。

小さい頃から、部活動や受験のような競争が嫌いだった。
親は勉強をしなさい というが、何故そんな面倒くさいことをしなくてはいけないのか。
周りの同級生がテスト前に集まって勉強したり、部活で仲間と高め合ったりと、その時に”やるべきはずのこと"をやっている間、僕はゲームをしていた。
YouTubeやゲームといった娯楽に没頭している間は、時間が驚くほど早く過ぎていき、周りに置いてかれていくという気分が紛れた。

中学生になると、周りがもっと勉強をし始めた。
クラスの大半は塾へ行き、夜遅くまで授業を受けているらしい。
僕は、夜更かししてゲームに没頭し、学校の授業ではほとんど寝ていた。
高校生になると、やらなくてはいけない勉強が増えた。この頃から、完全に周りについていけなくなった。
僕は、学校に行かなくなり一日中ゲームに没頭する生活になった。
最初のうちは、親に「学校へ行きなさい」「せめて勉強はしなさい」などと言われていたが
1年経って、親も諦めたのか、何も言われなくなった。
それから30年間、ずっと引きこもっていた。
50歳になると、両親はボケ始めて老人ホームに行くことになった。
僕は、唯一の話し相手だった両親が家からいなくなり、完全に孤独になった。

これまでに、何回か就労支援のスタッフやハローワークのスタッフが家に来て就職したこともあったが、すぐに辞めてしまった。
長年の引きこもり生活で、努力の仕方も人との接し方も分からなくなった僕は『労働はクソ』『競争社会はクソ』世の中のあり方に辟易していた。
そんな偏った僕の考え方に、周りもどんどん離れていった。 

60代、孤独、生活は生活保護でなんとかなっているが、もうゲームもとっくに飽きてしまった。
YouTubeもどれも面白く感じなくなった。
幸せな人間を見ると怒りと虚しさが込み上げてくる。
今の境遇は、競争社会に生まれたせいだ。
競争社会に生まれ、勉強やスポーツのような『競争』から落ちぶれた結果、周りに人間がいなくなり、孤独になった。
『競争社会はクソ』『自分は社会に殺された』
願わくば、次は競争のない社会に生まれたい。
そう思い自ら命を絶った。

.....いま、この世界では『競争』がないらしい。
生まれたときのスペックによって、職業や身分が決定し、その身分として一生を全うする。
生まれた時から、地位が決まってるため、頑張る必要がない。競争をする必要がない。
転生ガチャ。成功だ。

浮かれている僕を誰かが、乱雑に赤子で埋め尽くされた大きなコンテナに敷き詰めた。

息ができない。僕の下にも上にも赤子がぎゅうぎゅうに押し込められていく。糞尿が垂れ流れ、泣き声だけが響くコンテナの中で、僕は前世で感じたことのないほどの苦しさと辛さを味わった。
…『早くここから出してくれ』
そんな想いも虚しく、僕らのコンテナは出荷された。

貼られたラベルはF
スペック基準値未満の奴隷の身分だった。

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ここでは、自由と責任の話をしたいと思います。

現代の日本は、超競争化社会といって良いでしょう。小学生で、塾に通い中学受験を目指す子もいれば、中学生になり定期テストで良い点数を取り、推薦を狙う子、高校受験、大学受験で良い学校を目指す子もいます。
部活では、都大会や県大会を目指したりと、小さい頃から競争の世界に身を置きます。

僕は、この『競争』というものが、発達段階でとても重要な要素になると思っています。
というのも、『競争』とは1人ではできないものだからです。競争には常に、競争相手つまり、他者がいます。そして、他者と時には敵同士で競い合い、また別の場面では、他者と仲間同士で高めあう。
時には、協力し合い、時には、ぶつかり合い、その繰り返しの中で、他者との距離感や共同体(コミュニティ)の中での自己を確立していく。ここに競争の本質があると思います。

受験では、同じ高校を受けるもの同士が競い合いますが、入学してからは同じ仲間(クラスメイト)になります。
スポーツでは、試合中は敵同士でも試合が終われば、戦友となります。試合を通してチームメイトで高め合うこともできれば、相手のチームメイトとも競い合い、互いに高め合うことができます。

勉強でも、スポーツでも『競争』を通して、他者との関わりができ、同じ目的を持ったコミュニティを持ちます。その中での、高め合いを通して、社会性を身に付けていく。
これが現代の競争社会の根幹にあると思います。

しかしながら、この競争化社会には大きな弊害がありました。
『競争』を避けてきた人間は、本来、発達段階で備わるはずの社会性が欠如してしまうのです。また競争で勝ち残るには、本人の努力と継続が必要です。
競争を避けてきた人間は、努力を継続できなかったり、すぐに物事を放棄したりと、逃避癖がついてしまいます。
小学生や中学生など、発達段階でこの『競争』から目を背けてしまった子は、高校生や成人になっても、逃避癖が治らない傾向はとても強いです。
というのも、小学生や中学生は発達段階で1番差が付きやすく、この時期での差は高校生や成人になってからでは、なかなか埋めることができないからです。

それでは競争化社会は悪い社会なのでしょうか?

僕は、少なくとも生まれた時から身分が決まっており、個人の努力や裁量ではどうにもならない社会と比べれば、競争化社会は公平な社会であると考えています。
生まれながらにして、家柄やスペックで地位が決まっている社会では、努力をしても一生報われないことがあり得るからです。
個人に、競争をする自由があり、自分の身分を変えられるチャンスがある社会。それが競争が社会だと思います。

一方、現代では、生まれた時からYouTubeやゲームなどの娯楽があり、これらがしばしば『競争』からの逃避として使われています。YouTubeを観ることやゲームをやることは、自由です。しかしながら、自由には責任が伴います。競争から目を背けてきた人は、将来その責任と向き合わなくてはいけないということです。

そのため、この責任から目を背け、競争化社会の負の側面だけを切り取り、世の中のせいとすることは、根本的に間違っていると言えるでしょう。

加えて、生活保護などのセーフティーネットは、競争化社会において、多く税金を納めている人がいるからこそ、享受できるものであり、自分自身が社会の仕組みに助けられているという側面を認識せずに、社会のせいにするのも間違っています。

誰しもが生まれた時から、身分が決まった世界を不平等と思うでしょう。
少なくとも、『競争化社会』では、自分の努力と裁量で身分や職業を選ぶ自由があります。
そして自由には責任も伴います。
競争から逃避しつづけたツケが、将来自分に訪れたとして、自分の責任としてそのツケを払わなくてはいけないのです。

自由と責任を正しく理解し、今やるべき『競争』を仲間と共に高め合いながら、楽しく競い合う。
これこそ、教育者として、大人が子供に教えていくべきことであると僕は信じています。

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