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#32 ーうつ病みのうつ闇ー 自殺…なぜ誰にも打ち明けられないのか その1

ほとんど何の前触れもなく、身近な誰かが自殺してしまう…周囲は驚き、大きな衝撃を受け、同時に困惑し混乱に陥(おちい)る…

どうして自殺なんてしてしまったのか。どうして何も言ってくれなかったのか。自分にできることがあったんじゃないか。なぜ気づいてあげられなかったのか。なんで。どうして。あの時、ああしていれば…こうしていれば…

私だって自分の身近な人が自殺すれば、そんなことを考えるだろう。それがわかっていて、なぜ自分は自殺なんて考えるのかと言われるだろう。確かにそうだ。自分でも、何でなのだろうと思うのだから…
 
前にも書いたが、私は死に方を考えるほど苦しい時も人に話せない。それはなぜなのか…

まず、人を信頼していない。それは何と言うか、人を疑うとかいうのでなく、今の自分の状況を話して、受け入れられる人がいると思えないということだ。

拒絶されることが怖いし、当たり前に拒絶されるだろうと思っている。それは思い込みだという人もいるかもしれないが、実はそれまでにそういう経験をしている。

ほんの少し自分の苦しみを誰かに伝えた時「ネガティブなこと考えないで」とか「気晴らしでもしてきたら」とか「そんな風に見えない」などと言われたりして『ああ、言ってもわかってはもらえないんだ』と悟って、もう二度と話すまいと固く心に決めるという経験。

恐る恐る自分の心の扉を開けてみたが、とんでもない雨風が入って来て、急いで扉を閉ざしてしまう。そんな感じ。暴風雨が吹き荒れているのに扉なんて開ければ、家の中が水浸しになるのはわかりきっている。

そんなふうに、自分の苦しみが理解されると元々思っていない。だからわかってくれないと怒りを持つとか、すぐ絶望するというのはちょっと違うが、孤独感は強化されてしまう。自分の親しい人や大事な人だとなおさらだ。 

けれど、相手に悪気はない場合がほとんどだし、そういう人を責める気はない。やっぱり無理だよな。と思うだけだ。

むしろそれは当然のことで、やっとの思いで、ほんのごくわずかなサインを出してみたのだが、いつものように自分の心の本当のところは、鉄壁(てっぺき)の守りで隠しているので、相手がその深刻さに気づくはずもない。

自分でさえ、その堅固(けんご)で重い扉を開けることが、できなくなってしまっている。無理なんだと思った瞬間、笑い話にしたり話をそらしたりして、やっと出したサインを隠してしまう。時には、サインを出したこと自体を後悔する。
 
また、身近な人や有名人の自殺が話題に上った時、周囲の人が言っていることを、自分に言われるであろうことと思って聴いてたりする。自分のこの苦しみや死を考えているなんて言ったら、同じように言われるのかと思って。

「自殺は罪だ」とか
「とにかく生きて欲しかった」とか
「死ぬ勇気があるなら何でもできるだろ」とか
「闇が深くて怖い」とか
「話すだけでも楽になるのに」とか
「誰か相談できる人はいなかったのか」とか
「自殺なんて甘えてる。逃げてる」とか
「遺される人のことを考えなかったのか」とか
「病気や事故で生きたくても生きれない人もいるのに、自分で死ぬなんて」 
 とか……

こういう時に人は、自分にも話している相手にも、自殺は関係ないことだと思っていて、警戒(けいかい)していない。その人にとっては他人事(たにんごと)だからこそ、そういう時に出る言葉、それが本音なんだろうと思ったりする。

そんな経験を、一度や二度ではなく何回かするうちに、やはり打ち明けたところで、理解されないだろうと思っている。

また、相手に心配させたくないという気持ちもある。更に心配させることで、鬱陶(うっとう)しいと思われるのではないか、とも恐れている。

遺された親しい人達は『そんなに苦しんでいることを話してくれなかったのは、自分はその人にとって、その程度の存在でしかなかったのか…』と、傷ついてしまうかもしれない。

けれど相手を大切に思い、大切に思われていることがわかっているからこそ、言えないということもある。

そして、自分がとにかく情けないし恥ずかしい。自殺を考えるほど、追い詰められてしまう自分が恥ずかしいのだ。そんなことを思っている自分が、本当に嫌で人に知られたくない。

相手がどう思うかということもあるが、それよりもまず、自分自身が嫌なのだ。それを人に打ち明けた時、同情されたり、理解できないというリアクションをされることで、自分がそんな情けない人間だと、思い知らされることも。
 

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