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自分の瞬間的な思いを綴るという習慣について

 私が文章を書くのを習慣的に1番行っていたのは、高校生の時だったと思う

 小学生から中学生の時はゲームやボーカロイド、アニメやキャラクターものにばかりハマっていた自分が、高校生になってから現社の教科書や名著de100分等を観て、文学作品の深みについて知り、それ以来当時は無我夢中になって気付けば古今東西の文学作品を読み漁るようになっていた。

 当時の読書は、単なる楽しみを求めていた読書ではなく、古今東西の文学作品から生きる上で大切なものを得たい、また密かにそれらを知ることで一般の人よりも賢くなりたい、教養を持った人になりたい(今思うと本当に黒歴史で、私は当時の自分のこの部分が本当に嫌いである)という厨二心溢れた煩悩もあったように思う。

  そんな時の気持ちが影響してか、一時的に手記を書いたりしていた時や、感想文や論文を書いたりする時は、本から学んだ変わった表現を使って書くこともあった。恥ずかし過ぎて内容はよく覚えていないけれど、例えるならば自尊心の高い高齢者のような断定口調で人としての温かみの書けるものばかり書いていて、当時の先生達からも変わったものを書く生徒と認識されていたように思う。

 大学生になり、少しは当時を反省し、自分の興味関心のまま勉強や読書をするようにはなっていたのだけれど、高校生の頃、書くという行為にあれほど自信をもって、ノートに映画の感想でも、手記、論文でも何でも書きたがっていたのに、勉強関連のもの以外で文章を書くこと、ましてや自分の思いの丈をあたかも自分が作家先生気取りでびしばし書いていたあの頃と違って、もう自分の思いの丈を綴る習慣はなっていた。

 そんな私でも、院生になってからよく手紙を書く機会が増えたのだけれど、今日お世話になった人に手紙を書いていて、天啓のように気付きを得てしまった!

 当たり前のことかと思われるかもしれないけれど、文章を書くことで、例えば手紙の場合、相手への思いや考え方、伝えたい事などが整理され、そしてそれを書いている時、私の心は気が楽になり、密かに思い慕っている相手と会う前日のように、胸がおどっていることに気が付いた。それでいて、心は落ち着いているのである。

 実は今日家族の再入院という、心穏やかではいられない出来事があり、そんな中帰りに地元のドトールで手紙を書いていて気付いた出来事だった。ちなみに、不思議なことにこのドトールは行く度に、私の好きなアーティストの曲がかかるのである(Air Supply、Chicago、Bobby caldwelなど)きっと、人生で何か思うことがある時、変化が近付いている時に私に教えを示すために導いてくれているのかもしれない。(大げさと思われるかもしれないけれど、偶然を必然と考えがちなの私であり、何事も意味があると思った方が私は面白い)

 そんなこんなで、不定期で書きたい時に、自由にその時その時、思ったことを記録していけたらな、と思っている。本当に自由に書いているだけなので、読みやすくは無いかもしれないけれど……。でも、読んでくれる人がいるというのは、嬉しいことだと思うし、この習慣を改めて大切にしようと思った日なので、今日私は記念にnoteをはじめてみた。

 本当に、その時の思いというのは、時間が経つと、書いた本人自身の気持ちは変わったり、後から恥ずかしくなるのが常のことだけれど、その時書いた文章というのは永遠にその時が止まっているように思う。私はそんなものをこれからはもう少し増やしていこうかなと思う。自分の心の豊かさを求めて……。


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