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ことばを死友にしたいものだ──『いつかたこぶねになる日』読書感想文

「すごくよかったです!」ときっぱり一言で済ませたいところですが。
これだけだと、後から思い出せないので笑
……何がよかったか、振り返ってみます。



なっとくの喩え

著者はフランス在住の俳人、小津夜景さんという方。私は知らなかった。
この方の文章、すごい。

例えば、海。
海なんて、そこにあるものだけど(この感性のなさがいけない)。でも、小津さんの手にかかればこう。

いや、もちろん海は楽しい。ただその快楽に、嘔吐を誘うような憂鬱がゆらゆら貼り付いているという、ここがくせもので油断ができない。快楽と憂鬱のヴェールはどちらが表でどちらが裏といった向きがなく、たがい面はひだとなってたわみ、めくれ、うやむやになる。このうやむやのために、海ではエロスとタナトスとがたわむれあい、たがいをいなしあい、一歩間違ったら人が死ぬのだ。

「それが海であるというだけで」p.24

私は小さい頃から海がとても怖いのだが、海の得体のしれなさ、全部飲み込んでしまうようなそら恐しい感覚を、よく表してくれている文章だ。
こういう文章が、この本には終始登場する。いいよねー!

ごはんはおいしく

ごはんを美味しそうに描く人が、私はとっても好き。

ブラウンの目ざまし時計が正午を指した。昼ごはんは、ほうれん草入りのフェットチーネを茹でることにする。フェットチーネは朝市で手に入れた生麺である。具は冷蔵庫にあったべーコンを削ぎ、ベランダに茂っているバジルを摘んだ。

「釣りと同じようにすばらしいこと」p.31

これが杜甫の漢詩と一緒に描かれる描写だなんて、最高。
以前に読んだ『​​朝鮮の詩ごころ』という本に出てきた、一編の時調(シジョ)を思い出した。

麦に青菜の田舎(さと)の膳 ゆたかに食い
巌のもとの川辺にて 心のままにくつろがん
その余のことは わが心 一つだに欲りせず

『朝鮮の詩ごころ』より 尹 善道の詩の日本語訳

そうこうしているうちに、ほうれん草のフェットチーネが茹であがった。わたしはエメラルド色の麺をざっと湯切りしてフライパンに移し、ベーコンとニンニクを浅く炒めたオリーヴオイルとからめ、皿に盛ってたっぷりのバジルを添えた。

「釣りと同じようにすばらしいこと」p.35

とってもおいしそうだ。
くつろいだ時間に、お腹が満たされたら、それ以上のことはないじゃない?ね?

まとまりの美しさ、それぞれの美しさ

「とりのすくものす」の章では、シニョンを編むのが上手な友人、鳥の巣の写真集、とある博物学者の幼い頃のエピソード、鳥の巣の造形。そして蜘蛛の巣を題材にした漢詩につなげ、その詩の味わいをも十分に伝える。冒頭からラストを繋ぐシニョンは、著者の朝に対する淡い思慕で閉じられる。
目眩く展開される小エピソード。すごいよね、それでいて全部がきちんとおさまるんだから。

一つひとつのエピソードはとりとめないようでいて無駄がなく、よくぞここに集めたなと圧倒される。著者の見識の広さと漢詩に対する造詣の深さが伺える。
博物学者の子どもの頃のエピソードは、たった10行たらずの文章なのだけど、そこに描かれる情景と感情がこれまた驚くほどに美しい。

詩はそこにあり、ずっとある

この本を出版することになったはこび(だよね?)が書いてある「春夜の一服」。そこに、小津さんの漢詩、詩に対する思いが書いてある。

こうして無事に本ができ、あらためて思ったのは、漢詩はまぎれもなく詩だということである。詩は日常にはじまり、人の心と共振しつつも、日常から超然と隔たった、言語ならではの透明で抽象的な砦をひそかに守っている。そしてその透明な砦のつれなさは、まるでからっぽの空のように、わたしを心底ほっとさせるのだ。
世界を愛することと、世界から解放されること。このふたつの矛盾した願いを漢詩もまた叶えてくれる。日常の扉から入り、いつしかすべてが無となる感覚を、あの本で味わってもらえたらとても嬉しい。

「春夜の一服」p.163

無になる、までは私にはまだ行きつかないかもしれない。でも、この本は読者を世界から解放し、かつ、世界を愛おしく思わせてくれるエッセイであるなと思う。

そして「おわりに」で紹介される句。

詩友は独りとどまる まことの死友
詩友独留真死友

「おわりに」p.233 菅原道真「楽天が『北窓の三友』の詩を読む」の一句

人間は基本的に孤独で、他者の存在や心はどうすることもできない。一つだけ確かに自分の手の中にあるものがあるとすれば、それは自分の心だ。
その心に向き合い、整え、表すことのできる詩は、それを巧みに扱えるものからすれば、たしかにまことの死友だろう。

解説に、これまたぴったりの喩え

巻末の解説者の名前を見たら、『水中の哲学者たち』の永井玲衣さんだった。

彼女は、安易に他者を招き入れたりはしない。読み手は時に、言葉に取り囲まれた彼女をうらやむかもしれないが、やはり本人にあまり関心はなさそうだ。だからといって、彼女は他者を拒絶して、ひとりきりでいるわけではない。

永井さんの言葉選び、ぴったり。
そっか、この距離感だ。
この距離感が私には心地良かったのかな。

*   *   *

文庫版の新品を買ったのですが、装丁がさりげなくていいですね。
これを携えて、ローカル電車の旅に出たいなと思いました(ニースとは言いませんけどw)。


カバー写真|UnsplashTim Mossholderが撮影した写真

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