走り出したら止められないシステム──『ファシズムの解剖学』
主に1930年代〜第二次世界大戦終結までのドイツ・イタリアと周辺地域で起こったことをもとに、“ファシズム”の本質とは何かにせまる本。
Bruscoさんの記事でお見かけして、読んでみよう!と思いました(トランプ元大統領の存在には疑問符しかわかない私なので)。
ファシズム運動の起こった前提、過程、その結果を緻密に考察するプロセスは圧巻。そしてそこから導き出された定義は、自分的には腑落ち感50%くらいでした。
※本書のファシズムの定義については、本記事の末尾に引用文を掲載しておくので気になる方はそちらをご覧ください。
本記事では、主にドイツにおけるファシズム運動の大まかな顛末について今の私の理解をまとめておきたいと思います。
ファシズム運動の顛末
以下は、本書を読んでナチスドイツの“ファシズムが成るまで”の経緯を私なりにまとめたもの。
ステップ0:民族としての誇りの失墜と絶望的な経済状況などによる大衆の不満増大。培ってきたものはことごとく否定され、生活はどん底であり、「これ以上の落ち目はない」という半ば自暴自棄状態にある。
ステップ1:そのような事態に際し無策無力に見える従来の政治への不満が高まる。「今を変えてくれる何か」を漠然と望む風潮が世の中に蔓延する。
ステップ2:後のファシスト勢力が不満の解消を(時に暴力的に)実行する。一時的ではあれ不満の解消をしてくれた“ヒーロー”に対し大衆の支持が高まる。ナチスの場合、ここで既存勢力からの権力委任という僥倖あり。
ステップ3:人々の熱狂を煽るために属性ごとに策を弄し、絶え間なく不平や恐れを繰る。
ステップ4:ファシズムが成功するにつれ、初期の思想を転換せざるを得なくなるが、大衆の不信感がファシズム側に向かないよう「暴力支配」や「共通敵」を用意する。
上記の4ステップ目まで行きついてしまった時点ですでに「ファシズムのシステム」はほぼ完成しており、指導者が何もしなくても運動は自動的に推進される状態になる。
その後に待つのはファシズムの末期症状、“暴走”(としか形容できない)。
権力を握った当事者はもちろん、そのシステムに組み込まれた社会全体が際限なく向こう見ずになっていく。
私が“自動化”を感じた部分として、ホロコーストの重大な方針転換にヒトラーの意志があった物的な証拠はないという旨の文章を紹介する。
ファシズムはもはや集団に共通したイデオロギーとなっており、指導者の直接的なメッセージでなく周囲の解釈により過激化しながら突き進んでいく。
ナチスのファシズム運動はなぜ完成してしまったのか
第3章に「成功しなかったファシズム」として取り上げられているように、同時期、同じ状況になりえた国はいくつもあった。
その中で特にドイツが狂気を多分に孕んだ破局的ファシズムに突き進んでしまったのは、「条件が整ったから」以外の何ものでもないように見える。
ナチスの台頭は絶対的に逆らえない必然的な流れのように見えて、実はいくつもターニングポイントがあったようなのだ。
大衆がストレスの吐口として安易にカリスマへの熱狂を選択しなかったら……というのは当時の時代背景を考えると少し難しい気もするが、本来大局を見て冷静な判断を下さなくてはいけない政治家たちがいくつかの誤ったルートを選択してしまった局面が垣間見える。
当時のドイツの保守派の政治家たちが大衆政治への転換を──参政権を持った大衆の力をもっと正しく認識していたら。パーペンが既存の敵対勢力を蹴落とすためにヒトラーに権力の座を与えていなかったら。総力を上げて対抗勢力を築き上げていたら……(ナチス党以外の政治家が誰一人何もしなかったというわけではないようだけど、もっと早い段階で目を摘まねばならなかったんだろうなと思う)。
いずれにしても、当時実権を握っていた閣僚たちの奢りと怠慢があったことは確かだと言えそうだ。社会の新しい流れを軽視して見誤ると、こうまで恐ろしいことが起こる。
そしてその恐れは、今現在にだってたくさん潜んでいる。
本書のファシズムの定義(引用)
つまりは自省を一切排した責任転嫁と被害妄想からくる圧倒的利己性と強烈な思い込みをもつ集団的態度の究極形ってことだろうか。
わかるような、わからないような。