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すべてが終わったあとに残る徒労感━━『戦艦武蔵』読書感想文

大日本帝国海軍が最後に建造した巨大戦艦『武蔵』。本作ではその建造の経緯と、戦場での最後までを緻密な取材をもとに描いている。

解説で磯田氏はこう述べる。

『戦艦武蔵』は、極端ないい方をすれば、一つの巨大な軍艦をめぐる日本人の“集団自殺”の物語である。

解説(p.310)

建造の目的は、他でもない敵味方に関わらぬ人殺しであり、戦争だった。
「愚行だ」と後世からは100%批判される行為だ。

吉村氏の筆致にも戦争賛美や美化の向きはない。「まさに!」と思ったので解説の言葉を借りるが、下記のような立場に立っていることが明らかだ。

戦争そのものを人間の奇怪な営みと、その果てにあらわれる徒労感として、客観的かつ即物的にとらえる道を、吉村氏が選んでいるからである。

解説(p.316)

しかし、その“愚行”を達成するための建造の過程には、まるでプロジェクトXのように関係者の情熱が存在した。戦場では、その圧倒的な巨躯、装備、存在感から「沈まぬ船」と神格化されているのも事実だった。

大勢を見誤り、戦局を見誤り、結局最後まで“引く”ことができなかった太平洋戦争。それと同じことが、この武蔵の誕生から終末までの経緯の中でも等しく起こっている。

所員たちには、一つの確信があった。自分たちのつくっているこの巨大な新型戦艦が海上に浮べば、日本の国土は、おそらく十二分に守護されるだろう⋯⋯と。かれらは、この島国の住民の生命・財産が、自分たちの腕にゆだねられているのだという、強い責任感に支配されていた。
〜中略〜
それらの小さな人間の群れの中で、おびただしい量の鉄で組立てられた巨大な船体が、奇怪な生物のように傲然と横たわっていた。

p.133

このような気持ちがすべてを支配していた。そういう時代だったのだろうと思う。
振り返ってそれを“愚行”だというのは容易いが、このような病的に浮かされたような空気の中にあって、それに果たして気づく人間はどれだけいるだろう? そして、その流れを変えられる人間はどれだけいるだろう?


『武蔵』の建造は、西日本中から買い上げられた“棕櫚”の簾に覆われて密かに建造が開始された。
大日本帝国の威信をかけた巨大戦艦の存在はトップシークレットであり、大蔵省をも欺いて予算を通し、製造関係者は秘密を守る誓約書を結ばされ、全景を知る人間を最小限に止めるために工程は細分化された。

途中、設計図面の紛失事件が起こった際の様子は、このように書かれる。

走り廻っている監督官たちの眼は、すっかり血走っていた。設計図面の紛失は、結果的には海軍から民間造船所へ監督官として派遣されているかれらの監督不充分ということに、責任のすべてが帰せられてしまう。もしも、国外にその図面が流れ出てしまえば、軍令部・海軍省・艦政本部と手続きを経て、長い年月設計を重ねて起工した新戦艦の存在も、全く無意味なものになってしまうのだ。
監督官たちは、首席監督官以下助手にいたるまで、図面が発見されない折には、全員自決を覚悟はしているらしかったが、たとえ自決したところで、かれらの罪は、永遠に消えはしない。

p.81

人が命をもって償わなければならない仕事とはなんだろう。
その考え方を自然に全体で是認していることに、すでに“狂い”を感じる。

このように狂気的なまでの守秘義務と完遂義務のもとで建造は進む。

たくさんの苦労を乗り越えてついに完成を見た『武蔵』。
その進水式の情景描写からは、建造に文字通り命をかけた技術者たちの熱い想いがひしひしと伝わってくる。

渡辺の眼は、繋え立つ船体に戻された。呼吸がとまった。眼が、見開かれた。静体が動かない。意識が不意に霞んだ。その時、渡辺の眼に、かすかに船体の底部が身じろいだような気がした。渡辺は食い入るようにその部分を見つめた。錯覚ではなかった。船体は、たしかに動いていた。徐々にではあったが、かすかに動き始めていた。
そして、その動きは、次第にはっきりしたものになって、速さを増していた。
熱いものが、胸の底から噴き上げてきた。船体は、音もなく動いて行く。そして、同時に舷側に固着された大きな鎖が、船台の上を曳かれはじめた。荒々しい鎖の音が、速度を増すとともに、すさまじい轟きとなって船台をおおった。鎖と船台のコンクリートの間で、はげしい火花が起った。雷鳴に似た音が体をつつみ、土埃が竜巻のように逆巻いた。渡辺は、自分の喉元に、灼熱した鉄塊が突上げてくるのを意識した。
「バンザイ」
不意に暇ぐようなかすれた声がした。それにつられて、作業員たちは、両手をあげて唱和しはじめた。号泣に近い声だった。
熱いものが、頬にあふれた。巨大な城がすべって行く。それは、一つの生き物だった。

p.178

たとえなんの目的であれ、仕事に真剣に打ち込んできた人間が、その集大成ともいえる瞬間に心に抱く感動。
非常に大きな熱量を抱える、心を揺さぶられるシーンだ。


しかしこのように多大な労力をかけて、多くの人の人生を注ぎ込んだ成果物である『武蔵』は結局、たくさんの命を巻き込んで洋上に沈む。

その果てにあらわれる徒労感

人間は何を使命として生きるのか。
人間は何を成果とすれば満足するのか。

たとえ『武蔵』が沈まなかったところで、大日本帝国がその戦艦を持って他国を支配し、他国を踏み躙ったところで、それは成功だったといえるのか。

そういうところまでは本書は突っ込まない。
ただ淡々と、大日本帝国の絶望的な戦況と、武蔵の最後までが描かれる。

読後に残るのはどうしようもない虚しさだ。
でも、それで良いのだろうと思う。それが吉村氏の狙いなのだ。


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