論74.中低域と力量について

〇日本と世界のポップスの差異
 
今井了介氏は、ポップスにおける洋楽と邦楽の音楽的な違いについて、次のように述べています。
「(外国人のように)圧倒的な歌唱力がベースにあるとして、そうすると、コードやテンポ・チェンジ、転調などアレンジでデコレーションしなくても深い表現が歌で可能になるわけだ。
逆にいえば(日本人の)歌唱力を補うために、サビに極端なハイトーンを要求したり、楽器がいくつも増えて壁のようなアレンジになったり…そういったサウンド・プロデュースにおける仕掛けが必要になってくる、という言い方もできる。
力量のあるシンガーならば必ずしもサビでハイキーにいかず、中低域のレンジであってもサビをサビらしく伝えられ表現力を伴っているからだ。ただしこれは、何も歌唱力だけの問題ではなく、日本人の情感に拠るところも大きいと思う。」
 
そして、日本でもヒットしたEDMとアニメソングとの親和性についても述べています。
「(ハウスやクラブの)音楽の展開は曲単位でなく、その夜を通してどこにピークやクールダウンを持っていくかというところのトータルの流れで考えられている。」
クラブの一夜の情緒を一曲にしたのが、たとえば、EDMということです。
 
「日本のポップスは、詞とメロディが、そしてそれ以上にアレンジのダイナミクスが重要視される。」
「歌謡曲時代の日本のポップスに構造的な変化を加えないまま味付けをして時代に寄せていたのがJポップ」と言ってます。(「サヨナラヒット曲」今井了介 ぴあ)
 
 
〇圧倒的歌唱力
 
不思議なことに、次の時代を築いた人と考えるところは似ているものだと思いました。海外と日本のシンガーの歌唱力の違いとは、圧倒的というところの違いです。それはパワー、インパクトなど声量とメリハリの部分であるのとともに、あまりにも優れた音楽性、音感、リズム感、そして声のダイナミックかつ繊細なコントロール力です。
 
日本人が正確な発音、音程、リズムなどと言っているのと違い、語っている声に少しメリハリつけるだけで、心地よい共鳴を伴う歌声の動きとなるのです。つまり、メニュや電話帳を読んだだけで歌になるように、それだけ言葉と歌が結びついている、音楽になるということです。話す声ができあがっているので、歌の声と違和感がありません。
 
それは言語をそのまま歌にしていたところでの強みです。つまり私たちが外国語の語学を発音記号で学んでいくようなことを、母語として使ってきた人たちは、日常的に正確に喋っているのです。発音記号での理論づけがなくても何の不自由はありません。
 
 
〇日本人の変容
 
さすがに洋楽に慣れてきたというか、邦楽の影響がなくなってきたせいで、日本の今の若い人たちは、適当に歌ってもメジャーの音階や海外発のリズムをしぜんにこなします。
これも昭和の頃の大人たちでは、とんでもなく外れた音程、音階、リズムになったわけです。少なくとも今の人たちは歌っていて外れたことには、気づきます。アフタービートもとれず、英語もカタカナで歌っていた時代が長かったのです。
 
日本人の場合は、それが日本語とともに使われてきた謡、つまり、邦楽の謡や語りでしたから、明治以降の洋楽中心の音楽教育や、海外の曲からメロディを借りてきたような童謡、唱歌、演歌、歌謡曲などには、相当な無理があったのは、やむをえません。作曲家もですが、歌手もまた外国語を読むように音符にのせて歌っていたわけです。
 
それは演劇などでも、同じでした。そこでは日本語を演劇的な言葉として鍛えて語ってきました。そこで使われていた声を私は、「役者声」といっています。
歌のほうは、声楽をベースとしたところからポップスである流行歌=歌謡曲が始まったわけです。しかし、もう一つ、民謡と浪曲などの流れがあったのです。
歌唱スタイルとして、この2つのタイプは、結構くっきりと分かれているのです。
美声系と浪花節系とでもいいましょうか。
歌手だけではなく、役者、タレントなどにも、出身などにより、その二極化の傾向がありました。
徐々に前者が後者を駆逐していったわけです。唄いと語り、つまり、音楽とせりふ、曲と詞です。
その後、Jポップスでは、男性の低く太い声が、中性化していき、歌においては女性の声域のハイトーンに近づいてきたことは、何度も述べたので繰り返しません。
 
 
〇サウンド・プロデュースとステージ演出
 
「コードやテンポ・チェンジ、転調などアレンジのデコレーション」
「歌唱力を補うために、サビに極端なハイトーンを要求したり、楽器がいくつも増えて壁のようなアレンジ」と今井氏がいうように、そういったサウンド・プロデュースこそが、演歌、歌謡曲の後の日本のポップスを支えてきたともいえるのです。
 
それだけではありません、音楽の周辺での演出効果、舞台照明や音響機器、ビジュアル的なプロデュース、シンセサイザーや高価な楽器と演奏テクニック、ハイレベルのSEとアレンジでの高音質の仕上げなど、歌以外のハードの要素を多く利用していったことも、です。
それが日本の歌の個性やオリジナリティになっているのです。
特にダンサブルな面において見せる要素を加えたことも、日本人のあまり鋭くない耳に対して視覚効果は大きな効果を上げたのです。このあたり、日本のミュージカルをブロードウェイなどと比べるとわかります。
私なりに、声を除いたところでは、日本のミュージカルもオペラもレベルをあげてきたと思っています。その基準もまた、時代、メディアの変容に沿うものであり、日本だけでの現象ではないからです。ラジオやレコードでの聴くだけの音楽から、PV以降、観て楽しむ音楽への変化に沿ったものでした。
 
 
〇力量
 
「力量のあるシンガーならば必ずしもサビでハイキーにいかず、中低域のレンジであってもサビをサビらしく伝えられ表現力を伴っているからだ。ただしこれは、何も歌唱力だけの問題ではなく」については、当たり前のようですが、私より若い人からのこのような指摘は、なかなか貴重なことと思います。
プロデューサーや演出家が、歌手の実力というのを信用できなくなって、ハイトーンの方を好むような傾向になり、そういうことでの差別化を演出するようになってきたことが、歌手の声力低下に拍車をかけたと思っているからです。
 
日本の曲の場合は、作曲においても、Aメロの低い語りの部分からいきなりサビに飛ぶのではなく、微妙に中高音域の行き来するBメロが入っています。
歌謡曲やニューミュージックの場合は、そこが味となっていた曲が多いように思います。
その後のサビは思いっきり歌いあげる歌いから、テーマのリピートとして心地よく流せるような感じで繰り返すような処理がされるようになってきました。
音楽的な傾向なのか、歌い手のタイプの変化なのか、両方あるのでしょうが、そういう流れがうかがえるのです。
 
 
〇中音域
 
一般的にポップスのヴォイストレーニングでは、中高域をヴォリューム感たっぷりで、表現するようなレッスンはほとんど行われていません。第一にトレーナー自体がこういう理解をしていないし、そういう声の使い方も育て方もできないからです。
習いたい人の多くが高音を出したがってくるので、それが課題の中心になるのです。そういうトレーナーが求められます。ですから、ハイトーンの発声、喚声区の処理、歌唱がほとんどの課題となるケースが、多いのです。その分、基礎の発声や呼吸はおざなりです。(そうならざるを得ないのは、私のモノマネ芸人の歌唱に関する論をお読みください。)
 
ところが実際に、一流の歌い手の一流たるゆえんは、1オクターブくらいの歌をどのように表現できるかということです。狭い音域で継承されている曲には、名曲が多いのです。
 
 
〇ハイトーン
 
表現となるとわかりにくいので、ヴォイストレーニングでは発声だけで、表現に関わらないというトレーナーもいます。それはそれで1つのスタンスだと思います。もし、ハイトーンの発声だけで勝負できるような人であれば、それは1つの理想です。
しかし、そんな人は何十万人に1人しかいないのです。むしろ、そういう喉を持っていて、習わなくても歌える人はいくらでもいます。
そういう人は、不調のときだけトレーナーにつく人が多いわけです。ですから、調整オンリーかモノマネカラオケの歌唱に近いレッスンになるのです。
それはそれでよいとも思うのですが、それがその人の喉や発声の可能性に合わないことも多いのです。不安定な1、2音くらい高音へのアプローチならよいと思います。
それ以上は、求めず、割り切って自分のすでに持っていると思っている声域での完全な発声のマスターとそれを使った表現を考えていく方がよいと思うのです。そこがマスターできたら、さらなる高音も身近な課題になるはずです。
 
 
〇資質、または天性
 
不安定なものは、使えません。これが日本の場合、。マイクと音響で使えるようにしてしまうからよくないのです。それでは、長くは持ちません。
なによりも自分の個性が表現しにくくなり、きれいに歌える声のところで勝負しなくてはならないとなります。
となると生まれつきのように声がいい人や何の努力もなくきれいな声で歌える人も多いなかで勝負できるだけのものになるか、それを考えると不利すぎるのです。ほとんどの人には可能性がなくなるわけです。
 
まずは使えるところを最大限に使い切って、それなりの勝負ができなければ先はありません。1オクターブで勝負できないのに2オクターブで勝負できるとしたら、それは、自分の本来の理想の声ではないはずです。(今の時代、それを選ぶことがあるので、ややこしいのです。)
 
人間には好きであるということとともに自分の持っている資質というものがあります。例えばスポーツの選手で、どのスポーツを選んだかというのは、その人の可能性を開く上で大きな決定的要素です。
かつて共産主義国がオリンピックで強かったのは、好きなスポーツではなく、その人に合ったスポーツで才能を伸ばしたからです。もちろん、例外もありますし、好きだという強い思いが可能性を開くこともありますが。
 
最近の日本では、親が優れた資質を発揮したスポーツにおいて、その子が、その資質と親の早期からの英才教育を受け継いでいて、一流選手になるというパターンが、ほとんどです。
アスリートの事はともあれ、アーティストに対しては、そこはさらにわかりにくいわけです。
 
 
〇科学的研究の勘違い
 
運動における科学研究に比べたら、芸能や歌唱、発声における科学研究などはないにも等しいのです。こういうことをいうと、科学的研究が行われ、成果が出ているという人もいますが、成果とは、それで育った人材が出ることです。それは厳しく結果を問われる研究の実際、たとえば、アスリートの研究現場などを知らない人だと思います。
 
研究で確実に発展したといえるのは、アスリートに例えるのなら、その道具や練習器具、競技場などの環境でしょうか。アーティストの音響技術やステージの演出の設備等では、かなりの発展があったといえます。
ただアスリートは、記録があるので、さらに身体能力、成績を向上させていきますが、アーティストの場合は、それに頼ってしまうことで実力が伸びないケースも多いです。
 
トレーニングについても様々な試みで向上したといわれますが、アスリートは成績でわかります。アーティスト、ヴォーカリストに絞ってみれば、結果を見たところでも、あまりトレーニングに進歩、実績のないことがわかります。
 
自動車教習場が多くなって運転できる人が多くなったから優秀なレーサーが出るわけでもなければ、健康のためのジムが多くなったからといってアスリートが登場するわけではありません。
裾野が広がることがよいことだとは思っていました。カラオケに対して私が普及に努めたことは以前も述べた通りです。ただし今のような利用をされていくとは、思い浮かばなかったし、日本人の音楽への関わり方と娯楽ということでは、いろんな示唆を受けました。自己表現ということでの考えが、違うのです。
 
 
〇身体的能力
 
昔は、舞台で役者の喉は鍛えられていました。練習も養成所内外で徹底的にやり、日常生活でも相当、喉を鍛えるものであったわけです。今、それを受け継いでいるのは、伝統芸能者を除くと、お笑い芸人と一部の声優さんでしょうか。その声は、鍛えられています。
そうしてみると、身体的な能力の衰え、もしくは変化において、歌唱のスタイルが変わってきたといえます。また、世の中の生活スタイルや嗜好によって、結果的に、歌の世界や歌唱については、パワーは衰退していっている状況なのです。
 
もちろん、それは役者にも通じましょう。
人気のある名歌手や名優は、いつの時代もいます。ただ、その質が落ち、層が薄くなっていたのは否めません。時代劇ドラマがTV番組からなくなったのも大きいです。
例外が、声優と落語家、お笑い芸人でしょうか。そこのトップレベルの若手の喉は強いです。話し声でプロとわかるほどです。才能ある人がそちらの分野に移っていたと見ています。
 
 
〇海外との差異
 
中低域、中低音の問題について語ります。
私が海外のヴォーカリストの歌唱と日本人のを比べて見分けがつくのは、この中低域のヴォリューム感です。ハイトーンでも同じです。リヴァーブの効果に頼らないで通用するのです。
 
例えば、「ソモスノビオス」では、同じアンドレア・ボチェッリとのデュオで、アギレラ、夏川りみさんが同じように歌っています。夏川りみさんが、アギレラの歌唱をコピーしたのです。
そこでの違いは、スキャットと声の厚みです。
ヴォリューム感というのは、なかなか伝えにくいものですが、歌い方というよりは声の音色と思ってください。
 
 
〇共鳴、音色とピッチ
 
共鳴、響くといっても日本人の場合は、なんとなく鼻のほうに響かせます。鼻に響く声が鼻声といわれていた時代もありました。しかし海外の人たちは、身体に響くのです。同じ音の高さで、低く聞こえるのが、海外の人の声と思ってください。
 
それは低いのでなく太いのです。私はよくその2つの出し方を音色で説明します。日本人にとっては浅い声、細い声、明るい声を高い声と勘違いする場合が多いです。
これは演奏の現場などでもあります、薄く明るく柔らかく出すことが求められるのです。
 
そうでない深い音色や暗い音色に関して、音が合っているのにフラットしていると判断する人も多いです。トレーナーにもいます。
音の高さの正確さよりは、表現力の方が優先されるべきですが、ピッチや音程に厳しいトレーナーは、そこしか注意しません。確かにそれが合っていたら正しい歌にはなりますが、よい歌になるとは限らないのです。
 
でも音程の調整もできないくらいでしたら、だめですから、高い音に当てるようなトレーニングをするわけです。それが鼻腔や眉間などに当てるだけの練習になり、声そのものの豊かさ、深みや音色の魅力、個性を奪ってしまうことも多いのです。それでは、発声やヴォイストレーニングではなくて、ピッチトレーニングです。

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