見出し画像

「大丈夫?」について

以前チラリと誰かに言われたことがあったような気もするけれど「大丈夫?」って暴力かなと思う。火事にあってから、ずっと喉が痛く、咳が止まらなかったのだけれど、とうとう声が出なくなった。「生み出す音」と言われる音が入っているマントラ の練習をしていたら、全く出なくなった。

声は出なくなったけれど、喉の奥にあった魂のようなものが燃えてなくなったような感覚があった。ただ声が出ない。出そうと思っても出ない。出なくなったときに少し安心した。もう出さなくていいんだと。自分はとにかく持てる力を使い果たしたんだと。遠慮なく休んでいいんだと。

声が出ないまま、加計呂麻島についた。信号もコンビニもないただただ山と海と風がある小さな島。家族3人でそこについて海に入った瞬間、気が緩んで涙が出た。よく考えたら、家族3人で心の底からゆっくり休むなんてずっとしていなかった。いつもどこか気を張って、誰かに迷惑をかけていないか、ハラハラしていた。ずっと誰かに謝り続けて、ずっと誰かに感謝の言葉を言い続けていた。私のことなんて全く見ていなかった。

「大丈夫?」そう聞かれて「大丈夫。」と答えるのが辛くなり、人に会えなくなった時期があった。「大丈夫?」と聞かれて、「周りに気を遣ってばかりで、睡眠時間も取れなくて、食事を作ることも大変で辛い」「何かしたい、とか、家にある使わないものを送りたい、というメッセージの山に、相手に不愉快に思われないように断るための返信に疲れ果てていて、肝心の必要な手伝いを来てもらえなくて困っている。」なんて答えられる人はいるのだろうか?「大丈夫?」って質問には「大丈夫」って答えて欲しいっていう願いを感じてしまうのは私だけだろうか?「安心したい」という相手の願望を感じずにはいられなくて、その期待に答えるべく「大丈夫」って答える。私に答えの選択肢はない。相手の要望に答え、当たり前のように「大丈夫」と笑って答える。その分、1センチくらい頑張らなければならなくなる。「辛いんだね。しんどいよね。」って何も聞かず察してくれたらどれだけ楽だったろう。

とうとう倒れて動けなくなったとき、私は大丈夫の限界が来たと悟った。私は大丈夫ではないよ。やることが多すぎるよ。プレッシャーが大きすぎるよ。家族3人では沈没してしまうよ。

加計呂麻島で喉の奥にあったつかえのようなものが溶けていった。もう大丈夫だよ。もう頑張らなくていいよ。大丈夫って言わなくていいよ。祝福の涙が溢れてきた。カラダに重さが戻ってきた。そのとき、私は私が本当に病んでいたことを知った。ものすごく無理して、ものすごく周りに気を使って、自分のことを無視して、自分の傷を我慢して、周りの安心や笑顔を守ることばかり考えていた。本当は何の力も残ってなかったのに、余裕もなかったのに。普通な状態ではなかったのに。

じわりじわりと力が戻ってくる瞬間があった。

「じわりじわりと戻ってきている。」

それに気づくたびに、自分の傷の深さや、疲労の深さを知った。それをないことにして、周りの笑顔と安心を優先させていた私のエゴ、思い込みは深い。

「大丈夫?」

私は今でもこの言葉が怖い。私もよく使ってしまう言葉だからこそ怖い。人を苦しめてしまうことが怖いから「大丈夫?」に変わる言葉はなんだろう?と考えてみた。「調子はどう?」「どのような感じ?」大変な状況の人にそもそも質問を投げかけてもいいのだろうか?そんなことを考えるとどうしたらいいのか分からなくなる。ただ寄り添って、その人が必要としていることを植物のように与えられたらいいと思う。そんなことできると考えたこともない私だけれど、できるようになりたいと思う。本当に苦しんでいる人がいるときに、私は何もできないタイプだと思うけれど、でも自分がとんでもない体験をしたからこそ、本当の深いところから来る優しさを育みたいと思う。本当に本当に優しい人に私はなりたい。本当に本当に強い人に私はなりたい。本当の本当に表現できる人に私はなりたい。私から出てくる表現が、誰も傷つけないように。私の活動がなにものも傷つけないように。世界全体の幸せを願える私であるように。暴力的な表現を押し付けないように。そんな私で在れるように、ただただ自分を純化していきたい。


できるだろうか?

目指すだけでもいいじゃないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?