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ヨギと子育て

子どものカラダから見るマインド

子どもを見ていると思う。マインドが優位になっていないから、このエネルギーの状態を維持していて、この体つきなんだなと。

ポンと出たお腹、光っているようにまん丸のおでこ、キュッとしまったお尻。引き締まった膝小僧。プニプニでふわふわの手のひら。ちょどいい感じで丸っこく、伸びている背骨。キラキラとした目の奥。もし、彼らが「もっと背が高くなりたい」とか「もっと痩せたい」とか「もっとカッコ良くなりたい」とか概念とマインドを使って考え出したら、彼らの体のバランスは変わっていくのだろう。マインドを使って、「何かをどうにかしよう」とし始めた瞬間に人間のオーラみたいなものは変化していくような感じがする。

だから私は思う。彼らに「概念」を教えるのはまだまだ先の方がいい。「概念」が入ってきた途端に、人間のマインドは限界を設定し始める。枠を設定し始める。感じることや、体験することを先送りにし始める。

花は花でしかなくなり、鳥は鳥でしかなくなり、

数字は数字でしかなくなり、赤は赤でしかなくなり、

哲学や知識は言葉でしかなくなる。

概念が支配するエネルギー

その背景にある多面的なエネルギーを感じ取れなくなってしまう。「知っている」と思い込み、「感じる必要がない」と思うようになってしまう。本当はその時々で、花も鳥も数字も色もその質感やエネルギーを変化させている。そして見るものの状態で、その対象から受け取れる印象(エネルギー)の質も変化している。

アーティストや科学者とは、そこに常に疑問を持ち、感じ続けることをやめなかった人なのだろう。「それがなんなのか」を一瞬一瞬感じ、新しく出会い続けるということをし続けている人なのだろう。

感じるには観察力と想像力が必要で、そこにないものを「そこ」に持ってくることだ。それは嘘や虚像ではなくて、本当はあるけれど見えないものを発見していくことだ。

インドやネパール、アフリカなんかにいくと見かける。

オトナなのに、まるで概念などないようなスッキリとしたカラダの人。野生動物のようにキラキラとした、適度にプニプニとした骨格の人。「全ての人に平等に教育を!」と叫ばれる時代だけれど、果たしてその教育が完全にその人の命を生かす方向だけに働いているかというのは怪しいところだ。「縦社会の中で統制を取りやすい人材を育てる教育」「資本主義社会、民主主義国家というものがセットになった時に運営しやすい国民を育てる教育」ということがされているとも言えなくもない。

その人のいのちを生かす教育

教育にとって重要なことは、それが概念を押し付けて、その人の感性や想像力を奪うものでないということだと思う。それを始めてしまった瞬間に、その人の見るものは可能性を狭めていく。もしも幼い頃に概念を伝えるのであれば、それがその人の感性や想像力を広げていくようなものから伝えていくことが大切だろう。教えられることなんて一つもなくて、伝えたことの中から、本人が選びとって「教え」となっていく。「授業」から教わることよりも接したオトナや文化が持っている背景から伝わっていくことの方が多いだろう。

うちの子のことをお話しすると、彼は3歳半でまだ数字が数えられない。色の概念もまだ定まっていないようで、いろんな色を黄色ということもあるし、赤ということもある。健康診断の時に「3歳で色の概念や数が数えられないのは遅いので、しっかり教えてあげてください。」と言われた。もともと注意深く子どもの成長の様子を観察している方だけれど、そこからさらに注意深く彼の色や数字の概念との付き合いを見るようになった。色の違いは理解しているけれど、輝くような質感によって黄色と言っていることもあるような時もあるし、ただ色を言い分けるのが面倒だから全部を黄色と言っていることもある。数字も「音」として楽しんでいて、「1、2、5、7、9、10〜!!」と毎回好きなように楽しげに叫ぶ姿は「数を数える」という行為を「歌を歌う」というような行為と同じだと思っているようだ。

彼にとって、本当に必要を感じた時に、赤い色を見て「赤い」と言ったり(例えそれが黄色に見えるような輝きのある赤でも!)黄色いリンゴを見て「リンゴは赤い」と言うようになったり(間違いなく黄色であってると思いながらも!)「いっぱいください」ではなく「3個ください」と言ったりするようになるのだろう。(できたらたくさん欲しいと思いながら!)

私自身を狭めている概念を手放し、新しく選択する

こんな風に「子どもを見る」と言うことを通しても、どんな概念を通して見るかでその「評価」や「結論」みたいなものは大きく違う。大切なのはオトナ側、見る側の満足ではなく、子ども側のいのちが「本当に生かされて、その命を全うできるか」と言うこと。そこだけを私たちが思い出していれば万事オッケーなのだろう。

私たちがエゴイスティックに自分の概念を子どもに押し付けようとしている感じがしたら、まず自分自身を見てみたらいい。私が私自身に概念を押し付けて、自分を狭めていないかって。

子どもに対して気づいた思いや、フラストレーションは全部、いったん自分に当てはめて見直してみるといいのだと思う。

そして今の自分がベストだと思ったら、その通りにやってみて、同にも苦しく不自由な部分があるのだったら、自分とは違うやり方や概念を適応させていくことの必要に気づいていったらいい。

生き方、着るもの、食べるもの、住む家、応援する政党

見る映画、読む本、読むブログ、テレビの番組、ネットニュース etc...

全て自分の意思で自分に取り入れる情報エネルギーを選択できるように、

教育、病院、電気、水道、学校、幼稚園、習い事  etc...

本来、義務でないもの公共サービスのようなものでも、それが本当に彼らや私にとってベストな選択なのか、自らの意思で選び、選択し、無いものは創造すると言う作業にそろそろ多くの人が入っていくべき時期にきているように思う。

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