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私と父の物語 Family Tree

安倍晋三元首相の殺害事件から1ヶ月半が経った。
演説中の元首相が白昼堂々殺されたという衝撃性と、殺害の動機にカルト教団が絡んでいるというスキャンダル性からこの事件は多くの議論を呼んでいて、とても収まる気配は無い。
安倍さんという政治家への評価や、政界と統一教会との関連については多くの報道がなされているし、自分の意見はTwitterに書き込んでいるから、改めて書き足そうと思うことはない。
ただ事件発生の直後から、今回の事件の犯人である男性の境遇がどうしても頭から離れない。

安倍さんを射殺した犯人は山上徹也さん41歳、裕福な家庭に生まれ育つも母親がカルト教団である統一教会に入会し多くの資産を寄付、そこから彼の人生は大きく狂い、統一教会の広告塔の役割を果たしていた安倍さんを恨み殺害した、とされている。
奈良県有数の進学校に在席していたが経済事情から大学進学を諦め専門学校を出て就職。就職氷河期真っ只中だったことも響いたのだろう、職を転々とし事件当時には無職の状態だったらしい。
彼の人生は母親がカルトにのめり込んだせいで壊された。彼の父親と兄はそれぞれ自殺しており、結果的に家族全体が崩壊している。
彼がもう少しまともな親の元で育っていたら、きっと社会人として働き盛りだっただろう、結婚して子供もいたかも知れない。
しかし彼は夜な夜な一人暮らしのアパートで、自分の人生を狂わせたカルト教団に復讐をするため武器を作り込んでいた。どんな思いでその日々を過ごしていたのだろう。幾度、もっと普通の家庭に育った自分の人生を空想しただろう。事件の後私は毎晩のように彼の身の上を想像した。

なぜ彼に妙に感情移入をしてしまうのか。恐らくだが、家族、親と子、その関係が生み出す功罪というのは自分の人生において大きなテーマだったからだ。
私は少し複雑な家庭環境に育った、そして私のパートナーは更にそうだった。その生い立ちや境遇がそうさせているのだと思う。このテーマは何回かにかけて書くつもりだが、まず以下に私の生い立ちを記述する。
だからこの投稿は非常にパーソナルなもので、何か有用な情報は含んでいない。

私には父親がいない。母子家庭育ちだ。
正確に書くと私が生まれて間もなく父と母は離縁し、私が大学生の時に父は亡くなった。
父と母は日本海側の田舎で育った同郷人で、80年くらいに東京で再会した。父は地方の国立大を出たあと湾岸エリアにあるメーカーの工場で研究職に就いており、母は私立大を卒業して世田谷で高校教師をしていた。
二人は恋に落ち結婚の約束をするのだが、周囲には反対された。理由はその頃すでに父が重い病、精神の病を患っていたからだ。
様々な話し合いの結果、父が婿養子に入ること、結婚生活の継続が難しくなったら父が大人しく籍を抜けることを条件に二人は夫婦になった。
やがて兄が生まれ、しばらくは親子3人幸せな時間が続いたらしい。が、母がお腹に私を授かった頃には父の病はかなり進行しており、少しずつ日常的なコミュニケーションも難しくなっていった。
身重の母は幼い兄と父を連れて、少しでも父の症状が良くならないかと東京中の精神科医を走り回ったらしい、しかし残酷なことに私が産まれる頃には、離婚を決意するくらいに父の病気は重くなっていた。二人は涙ながらに離縁をし、父は実家に戻り療養生活に入った。
そういうこともあって父の写真は少ししか残ってない、母が思い出すと辛くなるからか、当時のアルバムから父の写真はほぼ取り除かれていた。
一枚、世田谷のアパートで私をお風呂に入れてくれている父の写真がある。そんなにイケメンではないが人懐こい顔立ちで、優しい表情で笑う父と幼い私が写っている、お気に入りの写真だ。写真の中の父の目鼻立ちは、今の私にそっくりだ。

数年後、東京で働きながら二人の子供を育てることに限界を感じた母は実家に帰郷、それ以降私は母と兄と母方の祖父母と共に、海と山に囲まれた広々とした田舎で暮らした。
母の実家はある程度裕福で、幸いお金の面で苦労をした記憶はなかった。甘やかされた思い出も特になかったが、住んでいた日本家屋はやたらと広く清潔で、普段買ってもらう服は周りの子供より少し質が良く、いつもきれいに洗濯されていた。祖父が乗っていた大きなシルバーのセダンは、いかにも高級そうだった。
だから私は母子家庭特有の経済的な辛さを知らない、そのことを何となく負い目にも感じている。
ただ、几帳面でやや神経質な母と、田舎の老人らしく朝から晩までよく働き、頑固で口数の少ない祖父、そんな祖父にひたすら連れ添うことが幸福だと信じている祖母に囲まれ、我が家はいつも独特の潔癖さがあった。
中年の男性が不在なせいか、我が家にはビールを飲んで居間でうたた寝をする者も、深酒をして深夜帰宅しする者もおらず、ギャンブルやアウトドアの習慣も、男女の性愛の気配も、くだけた弛緩な家族のだんらんもなかった。
ただひたすら毎日、それぞれの仕事や学業をこなし、規則正しく帰宅してご飯を食べそれぞれに過ごす、真面目な人間の集まりがあった。私はそんな我が家の雰囲気が好きだった。
父とはその後二度と会わなかったわけではなかった。憎み合っての決別ではないこともあり、また近所に住んでいることもあり、父は身体の調子が良いときは時折我が家にやってきた。
私と兄を見て嬉しそうに笑っていたが、頭を撫でたりはしてくれなかった。あとは祖父と難しい話をしていた。今思えば病状の報告をしていたのだろう。
誕生日にはドライブに連れ出してくれることもあった。父の運転する少しくたびれたカローラの雰囲気、父が吸うマイルドセブンの残り香、連れて行ってくれた国道沿いの喫茶店のオムライス、今でもよく覚えている。
喫茶店のテーブルはアーケードゲームの筐体になっていて、私がゲームはできないと言うと父は少し寂しそうに笑った。父の車からマイルドセブンの箱をくすねて、自分のお守りにしていたこともある。
カッコつけて一本ふかしてみたこともあるが、気持ち悪くなってすぐに火を消した。
運動会の日には、遠く駐車場の電柱の影から私と兄を見守っていた。こっちに来ればいいのにと手招きしても決して保護者席のテントの中には入らなかった。
精神を病んでろくに仕事もできない自分が近づきすぎるのは、私と兄にとって良くないと、たぶん父は考えていた。

中学高校へと進み、父と接することはほとんどなくなっていった。部活や音楽に没頭する生活の中で、父のことを考える暇も無かった。
そして私が大学に進学ししばらく経った頃、父が亡くなったと連絡が入った。直接的な死因は、聞いてもあまりよく分からなかった。父はまだ50歳だった。
母からは「私は行けないが、貴方達はお父さんのお葬式に行ってみてはどうか、勿論強制はしないし、嫌なら行かなくてもいい。二人でよく話し合って決めなさい」というような指示を受けた。
私と兄は特に深い考えもなく、二言三言話してすぐに行くことに決めた。国道沿いのメモリアルホールで行われている告別式はこじんまりとしていて、近しい親族の方だけが参加していた。
兄と私が来たことに気づくと、親族の方によく来てくれたとお礼を言われ、一番前の席に座らせてくれた。
よく見ると私達以外はほとんど高齢の方達だった。
棺の中の父は、かなり痩せてしまってはいたが記憶の中と同じ優しい顔をしていた。トレードマークの大きな眼鏡が胸元に添えられていた。(私と兄の強烈な近眼は間違いなく父の遺伝だ。お母さんに似れば良かったのにね、とよく母は笑っていた)
私は幼い頃よく使っていたピアノのおもちゃを一緒に棺に入れた。出棺のときも私と兄が先頭で棺を担いだ。
粛々と火葬まで一通りの儀式が終わり、帰ろうとする私達は親族の方に呼び止められた。父は生前私と兄を受取人にした生命保険に入っていた、保険金が降りるので受け取ってほしいと言うのだ。
その額は二人合わせて1000万円近くもあった。とても受け取れない、と必死に断った。
父の実家があまり裕福でないこと、父の兄も同じく病弱でずっと施設に入っていることは、母や祖父からなんとなく聞いていた。仕事をしていない父には、多分障害者年金くらいしか収入がなかったはずだ。
そんな父が少しずつ払った保険金をとても受け取れない、どうかご家族の皆さんで納めてくれと兄は固辞した。しかし親族の方は最後には涙を流して「清(父の名)にとって貴方達の存在は人生の殆ど全てだ、受け取ってくれないと死んだ清に何を言われるか分からない」というようなことを言った。
兄も私も流石に断りきれず、とりあえず書類を貰ってその場は帰ることにした。
結局、その保険金はそのまま受け取り、何かあったときのために母に預けた。
これが、私の父に関する記憶のほとんど全てだ。
生きてきた中で父親がいないことを寂しいと感じたことも無いし、母子家庭育ちであることを恥ずかしいと思ったこともない。
勿論経済的に恵まれていたことが大きいし、母にきちんとした教養があり、私と兄をしっかり愛して育ててくれたからだろう。
一人の女性として自立して生きる母の存在は、自分の価値観にも良い影響を与えた。小柄だが整った顔立ちをしていて、コンサバ寄りの服を綺麗に着こなしていた。多分離婚後も異性にモテたと思うが、母には男性の気配は一切無かった。

私は両親のうちの片方を早くに喪失しながらも、特に不自由なく、妙にねじ曲がったりするこもなく育つことができた。その後私は人生のパートナーと一緒になるのだが、その人は両親が揃っていながらその両親に苦しめられ、家族というトラウマを背負って生きていた。そのことについてはまた別の記事で書こうと思う。