アナログ派の愉しみ/本◎ウンベルト・エーコ編著『醜の歴史』

ヨーロッパの闇の美術史を
ひもといてみたら


その本が世に出たとたん条件反射のように買い求めながら、以後、ページを開かないままに月日のたってしまうことがある。わたしにとって、ウンベルト・エーコ編著『醜の歴史』は、そんなたぐいの一冊だ。原著が2007年、日本語版(川野美也子訳)が2009年の刊行だから、かれこれ十余年もわが書棚でひそやかに埃をかぶっていたことになる。

イタリアの小説家で記号学者のエーコが、持ち前の博覧強記ぶりを発揮した大著だ。序論で、「いずれの世紀も、哲学者たちや美術家たちは美の定義を提起してきた。彼らの証言のおかげで、美の観念の通史は、再構成が可能である。ところが、醜に関しては事情が異なる。醜はほとんどずっと、美と対立するものとして定義されてきた」「醜の歴史はまず、何らかの形で『醜い』とされた物や人間の視覚的・言語的表現のうちにその史料を探してみなければならない」と書き出して、この本の編纂意図を論じたのち、シェイクスピアの『マクベス』第1幕の魔女たちの叫び、「きれいはきたない、きたないはきれい……」の引用で結んでいる。

そのうえで、本編は「古典世界の醜」からはじまり、「受難、死、殉教」「黙示録、地獄、悪魔」と続き、中世・ルネサンス・近代を経て、「アヴァンギャルドと醜の勝利」「他者の醜、キッチュ、キャンプ」「現代の醜」までの全15章により、ざっと2500年間におよぶ「醜」のイメージをたどっていく。ときには目を背けたくなるほど血なまぐさかったり、つい下半身が疼いてくるほど猥褻であったり、おいそれとはお目にかかれない図版が一堂に会した、いわばヨーロッパの闇の美術史なのだけれど、しかし、わたしは首をかしげずにいられない。それらがちっとも醜いとは感じられないのだ。

これは何としたことか? つらつら考えてみると、上記の章立ても示すとおり、ここに構想されているのは、あくまで古代ギリシアの神話的世界からローマ帝国以降のキリスト教世界へと接続していく座標軸のうえに設定されたものだ。その先に階級闘争や宇宙人到来となっても、つまりは人間の外側に価値判断の基準があって、そこから美と醜が立ち現れてくるのに変わりはない。かつてエーコの世界的ベストセラー『薔薇の名前』(1980年)の翻訳を読んだときも、また、ショーン・コネリー主演による映画を観たときも、もうひとつぴんとこなかったのも、中世の修道院を舞台に繰り広げられる殺人事件や異端裁判では、その倫理的な価値判断の基準がすべて人間の外側に設けられているため、人間の内側の醜さとそれがもたらす恐怖がまったく感じられなかったらではないだろうか。

そうした意味で、多数の図版のなかで最もインパクトがあったのは、第5章のルネサンスの時代に収められたリエージュ作『フランドルの三連祭壇画の風刺画』(1520年)だ。それは、赤い帽子をかぶった男がアカンベーをしているだけの他愛のない絵ではあるが、ようやく人間が神の手から解放された時期ならではのものだろう、自分の手で自分の顔を歪める、つまり外側からではなく内側から醜さを取りだすという、ただそれだけのことで世界の座標軸自体を無化しようとする底意が滲み出ているのだ。

ただし、おそらく日本人の目から見れば、醜さにおいて、近年ブームとなっている伊藤若冲、岩佐又兵衛ら江戸時代の奇想画家の作品のほうがずっと魅力があろう。西洋と東洋の精神風土には、21世紀のいまなおこれだけの懸隔が横たわっているのに違いない。さらにもっと親しい例を挙げるなら、われらが大衆文化の大いなるアイコン、怪獣ゴジラこそ、シェイクスピアの魔女たちがうたう「きれいはきたない、きたないはきれい」を体現しているように思うのだが、どうだろう?


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