アナログ派の愉しみ/本◎バルザック著『「絶対」の探求』

ただならぬ魅力と
凶々しいばかりの気配が


フランソワ・トリュフォー監督の映画『大人は判ってくれない』(1959年)のなかに、12歳の少年が作文でバルザックの『「絶対」の探求』の文章を丸写しにするエピソードが出てくる。よりによって、たいていのフランス人には周知のはずの、この長篇小説のクライマックスをなす個所だ。

 息も絶えだえの病人は突然、握りしめたこぶしにからだを支えて起きあがった。ギョッとした子供たちに投げかける視線は、まるで稲妻のように彼らのすべてに突き入った。首筋にわずかばかり残っている髪の毛がそよいだ。しわがピクピクふるえた。顔は火のような精気をおび、そこを、ある霊感の息吹きが通りすぎて、この顔を崇高なものとした。激怒のために引きつる片手を高く差し上げると、われるような声でアルキメデスの有名な言葉を叫んだ、――「EUREKA!(わかったぞ!)」(水野亮訳)

 
かくして国語教師の激しい怒りを買い、少年は学校から放り出されてしまう。それは、小学校を退学して少年鑑別所に入れられたトリュフォー監督自身の経験を反映したものといわれている。フランスの文豪、オノレ・ド・バルザックがこの作品を発表したのは1834年のこと、極東の島国では晩年に差しかかった曲亭馬琴がなお旺盛な執筆活動を繰り広げていたころで、もし日本の小学生が作文で『南総里見八犬伝』の文章を引用したら教師は面食らって、たとえ感心されても叱られはしないのではないか。

 
それはともかく、反抗期の少年にとってばかりでなく、この『「絶対」の探求』という近代文学史上の傑作はどうやら、ただならぬ魅力と同時に、不穏な気配を秘めているようだ。凶々しい、とさえ言いたくなるほどの……。わたしなりにそのポイントを三つ挙げてみたい。

ひとつ。小説の主人公たるフランドルの富裕な地主バルタザール・クラースは、人生後半の20年余を化学上の絶対的真理を探求することに取り憑かれる。もしそれが解明されれば錬金術師よろしく、みずからの手でダイヤモンドを作りだすのも容易だという。そのためにおびただしい実験器具や高価な試料を買い付けたため、ついに破産に瀕して、労苦のあまり愛妻は命を落としてしまう。さすがに改心して実験を中止したのも束の間、ふたたび情熱に駆られるまま再開して……を繰り返したあげく、70代に至ってなお妄執に囚われつつ、脳出血の発作に見舞われて悶死を遂げる場面が上に引用した個所だ。そんなバルタザールの姿は19世紀のヨーロッパにあって、神が失墜し、代わりに自分こそが万物を認識できると考えるようになった人間の凶々しいありさまを象徴しているだろう。

もうひとつ。バルザックが『「絶対」の探求』を手がけたのは35歳のときで、破滅へと突き進むバルタザールを描写する筆力には鬼気迫るものがあり、あたかもこの主人公が乗り移ったかのような狂的なものすら感じられる。そう、これは「人間喜劇」の構想のもとに世界を描きつくそうとした作家の自叙伝でもあったろう。相前後して『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』などの代表作も完成したばかりでなく、社交界で恋愛遍歴を重ねてきたかれはこの年、運命の相手、ハンスカ伯爵夫人と出会って波瀾に満ちた関係が幕を開ける。そうした人生行路は華やかな名声に包まれながらも、ついには莫大な借金を負い、糖尿病のせいで失明して、バルタザールよりずっと若い51歳で最期を迎える結末へとまっすぐ続き、ここにも凶々しいものを見ないではいられない。

さらにもうひとつ。近年、天然ダイヤモンドのクオリティに匹敵するほど、人造ダイヤモンドの技術が向上したという。間もなく両者はまったく見分けがつかなくなるらしい。と言うことは、バルタザールが探求した「絶対」をついに人類は手に入れたわけだ。でありながら、もしそれがさっぱり人類の福祉に寄与しない「絶対」とすれば、これほど凶々しい事態もないのではないだろうか?


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