アナログ派の愉しみ/本◎笹目いく子 著『独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖』

コスモポリタンが描く
勧善懲悪の光景


近年、書店の文庫コーナーで圧倒的な活況を呈しているのはエンタメ時代小説のジャンルだ。もとより多くの読者が存在してこその現象に他ならないが、なんだって21世紀も中盤に差しかかったいま、チョンマゲを結った主人公たちがこれほどまでに持て囃されるのだろう? そんな疑問に格好のヒントを与えてくれるのが、笹目いく子のデビュー作『独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖』(アルファポリス文庫 2024年)だ。

 
著者は1980年東京生まれ、藤沢・鎌倉で育ち、中央大学を卒業後、東京大学大学院の博士課程修了を経て、現在はイタリア人学者の夫君とアメリカ東部に居住し、子息は現地のミドルスクールに通学しながら剣道の道場で修行中という。すなわち、絵に描いたようなコスモポリタンの人生行路を辿りながら、その彼女があえて時代小説の執筆に取り組んでいるところが興味深い。

 
こうした設定だ。ときは江戸時代後期の文政年間。主人公の山辺久弥は本所松坂町にわび住まいして三味線の師匠を生業としていたが、実はある大名家の庶子に生まれ、たぐいまれな剣の達人でもあった。そんなかれがたまたま父母の虐待から逃れてきた少年と出会い、青馬と名づけて匿ってやるうち、天性のものらしい三味線の才能を発揮してみせた。また、かれのもとへ稽古に通う柳橋芸者の真澄は天涯孤独の境遇で、世話をしたいと申し出る者も数知れずいたが、師匠への思いを胸に秘めてひとり身を守り通していた。

 
それぞれ心に濃い陰りを宿した三者がけなげに生きていこうとするのに、カネや権力に取り憑かれた連中は決して許さず、善と悪との相克はページを追うにつれて深刻さを増していく。まあ、その成り行きはある程度予測がつくとおりに進行して、だから安心して読めるのだが、ふと気がつくと文庫本を持つわたしの両手がわなないていたりする。一体、この興奮はどこからやってくるのだろう?

 
そこで、昔日の記憶がよみがえった。高校のとき、漢文の教師が俳優の東野英治郎と親しい仲だったらしい。当時、東野といったらTVドラマ『水戸黄門』で人気を博して日本じゅう知らぬひとはいなかったろうが、あるとき酒を酌み交わしながらこんな話をした、と教師が披露した。全国各地を撮影でまわっていると、ロケ先の人々がまるでホンモノの黄門さまが世直しにやってきたかのようにありがたがって、いろいろな差し入れを持ってきてくれるのを苦労して断るのだ、と――。

 
架空のドラマを現実のできごととごっちゃにして感情移入してしまうとは、昭和の人々の素朴な心性だろうか。わたしはそう思わない。勧善懲悪などしょせん絵空事とわかったうえで、どこかで善が悪を打ち負かすことを希求したくなる、そうしたパラドキシカルな心性は、むしろ善と悪の境界さえ曖昧となった令和のいまだからこそわだかまって、エンタメ時代小説の流行をもたらしているのではないか。

 
 チンチンチン、トチチリチン、と二挺の三味線が小気味よくお囃子を奏ではじめる。青馬と真澄の連弾(つれびき)である。〔中略〕久弥は扇子を取り上げた手を膝に置くと、連弾に負けぬ声量で唄い出した。
 
 打つや太鼓の音も澄み渡り 角兵衛角兵衛と招かれて
 居ながら見する石橋の 浮世を渡る風雅者
 うたふも舞ふも囃すのも 一人旅寝の草枕……
 
 久弥がたっぷりと情感を込めて響かせる唄と、真澄が奏でる端整で繊細な替手(かえて)に、青馬が楽しげに乗ってきた。真新しかった紫檀の棹もずいぶん弾き慣れ、芯がありながら気品のある、涼しげな音色をよく引き出している。

 
久弥、青馬、真澄はみずからの意思に反して、血で血を洗うようなお家騒動に巻き込まれたあげく、あくまで善を貫いて悪に打ち勝ち、ついに念願どおり手と手を携えてひとつの家族となりおおせることに。引用したのは、そのお披露目として知己の人々を招いて催した三味線の舞台の場面である。かつての『水戸黄門』でいうなら、黄門さまの差し金で悪党どもをおびきだし、助さん格さんが葵の御紋をかざして退治して、晴れて善良な庶民が救われ、黄門さまが高笑いするラストシーンに該当しよう。

 
わたしは三者が織りあげる「越後獅子」のアンサンブルを想像して目頭を熱くしながら、しかし、とようやく思い当たったのだ。ここにあるのは日本式タテ社会に寄りかからない、もっとしたたかでプラグマティックな勧善懲悪の光景であることに。コスモポリタンの著者だから成しえたところの。


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