アナログ派の愉しみ/映画◎トム・クーパー監督『英国王のスピーチ』

吃音者の国王が
現代に気づかせてくれること


わたしはいつのころからか、どもりだったらしい。らしい、と言うのは、そうした自覚のないままに過ごしてきて、小学3年のある日、教室で友だちがわたしの物真似だとして「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは……」と激しくどもってみせ、クラスじゅうがどっと笑い声を挙げたことから、初めて自分でもそうと気づいたのだ。以来、しゃべるときには意識してゆっくりと、一語ずつ舌の先から押し出すように心がけることで、少しずつ少しずつ改善していった。とは言っても、いまだに何かの拍子に興奮して声を荒らげたり、酒に酔っ払ってクダを巻いたりすると、われながら呆れるぐらいどもることがあるので、決して根治したわけではなく、長年の習いでかろうじて抑え込んでいるというのが実情だろう。

 
であればこそ、トム・クーパー監督の『英国王のスピーチ』(2010年)はひときわ身につまされた。

 
現イギリス国王・チャールズ三世の祖父にあたるジョージ六世の、史実にもとづく物語だ。幼時に受けた仕打ちによって強度の吃音症になったかれは、かねて専門家たちの治療を受けてきたが、ことごとく失敗に終わる。そうしたところ、妻が市井で見つけた役者くずれの言語聴覚士ローグと引き合わされ、「私が初めて話した平民」の型破りな性格とやり方に衝突を繰り返しながら徐々に心を開いていく。やがて、心ならずも王位を継ぐ日を迎えたころ、ヨーロッパ大陸ではヒットラーの率いるナチス・ドイツが跋扈して、ついにポーランドへ侵攻するに及んでイギリスも宣戦布告を決意し、国王みずからがラジオ放送のマイクの前に立って全国民の団結を訴えることに……。

 
コリン・ファースとジェフリー・ラッシュの演技による、そのクライマックスの場面をわたしも公開時に映画館で観たときには、まさに手に汗握る思いで、顔面蒼白のジョージ六世がローグのリードで無事に演説を終えたとたん、滂沱の涙が噴きこぼれたものだ。この映画が同年のアカデミー賞の作品賞をはじめ主要4部門に輝いたのも当然だったろう。

 
ところが、である。あの感動から10年あまりが経過した現在、久しぶりにDVDで見直してみたら、ふたりの名優の練達のアンサンブルに感心しながらも尻のあたりがムズムズして、とうてい素直に感動できない自分がいるのだった。そして、その理由を思いつくのに時間はかからなかった。

 
作中には、国王一家がそろってテレビでヒットラーの演説を眺めるシーンが出てきて、ドイツ語の意味はわからなくとも、甲高い絶叫と手振り身振りで聴衆を陶酔させるありさまに、ジョージ六世は「うまい」と洩らす。すなわち、ここでは吃音症のイギリスの国王と弁舌巧みな独裁者が対比され、圧倒的なハンデを負う前者が宣戦布告にあたって、名もないセラピストとのパートナーシップにより試練を乗り越えたという図式で、その意味では演説に関して両者は理念を共有する同じ穴のムジナなのだ。もとより、第二次世界大戦直前の国際情勢下では納得のいく話で、そうした国王の存在が苦難の戦争を勝ち抜く原動力になったろうし、また、映画が公開された2010年の時点でもイギリスはEUの一角に位置して、当時の女王・エリザベス三世のもとで国際社会の結束をテーゼとするのになんら疑念はなかったはずだ。

 
しかし、その後、EUを離脱したイギリスばかりでなく、いまや世界のあちらこちらで自国の「ファースト」が主張され、国際社会の対立や分断をものともせず、指導者たちが声高に弁舌をまくしたてるようになった。そんな光景をしばしば目の当たりにするにつけ、不穏な危機感を掻き立てられるのはわたしだけではないだろう。かくして、もし現代にジョージ六世がマイクの前に立つのなら他の演説の可能性だってある気がしてくるのだ。そう、おのれの吃音を無理やり抑え込むのではなく、吃音は吃音のまま自然体で、いまこそ人類全体の連帯と福祉を実現しようではないか、といった……。それに気づかせてくれるうえでも、この映画は傑作と呼ばれるべきだ。
 

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