アナログ派の愉しみ/本◎井筒俊彦 著『「コーラン」を読む』

存在の夜――
ムハンマドの預言の根底にあるものは


今世紀後半には、イスラム教徒の人口がキリスト教徒を上回って世界最大の宗教になると見られている。西暦4世紀末に古代ローマ帝国の国教と認められたキリスト教が以後、人類の文明をリードしてきたとは、たとえば極東の日本国憲法の基本理念がそこに立脚していることを見ても明らかだろう。その世界最大の宗教の座がイスラム教へと移りつつある今日、各地でキリスト教とイスラム教の世界観のぶつかりあいが生じているわけだが、望むと望まざるとにかかわらず、ここに人類の文明は新たな段階に入るはずだ。

そうした未来を展望するためにもイスラム教の聖典『コーラン』を知ることは大切だろうが、実際にひもといてみると戸惑ってしまう。これまで馴染んできた聖書や仏典に較べて、粗野というのか雑駁というのか、あまりにも高尚さに欠けているからだ。そう感じるのは、わたしのような浅学の徒にかぎらないらしい。ムハンマド(マホメット)を人類史上の偉大な英雄と讃えた大英帝国の歴史家カーライルも『コーラン』には辟易して、こんな退屈な本はない、とても読み通せるものではない、と毒づいたという。

つまり、7世紀のアラビア半島で富裕な商人ムハンマドがアッラーから授かったこれらの言葉を、門外漢のわれわれが常識の範囲で理解するのは絶対不可能なのだ。井筒俊彦の『「コーラン」を読む』(1983年)を開くと、こうした世界的なイスラム学者によるレクチャーがなければ、入り口の敷居さえまたぐことは叶わないとの思いを強くする。この本は市民セミナーで各2時間、計10回の連続講義をまとめたもので、井筒はもっぱら巻頭の「開扉」の言葉を読み解くことに専心する。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において……
一 讃えあれ、アッラー、万世(よろずよ)の主、
二 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
三 審(さば)きの日の主宰者。
四 汝をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
五 願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
六 汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
七 汝の嘉(よみ)し給う人々の道を歩ましめ給え。

ほんのこれだけの文言を把握するために、文庫本でざっと400ページの分量を費やす講義というものが想像つくだろうか。わたしは寡聞にして他に例を知らない。ある意味ではなはだ効率の悪いやり方かもしれないが、碩学が惜しげもなく知見のかぎりを注ぎ込んで数行の文章を読み解いていく態度に、わたしは読書という営為の神秘を見る思いがした。もとより、その内実をここに要約できるはずもないけれど、具体例としてひとつだけ論点を挙げてみよう。

「存在の夜」と井筒は語る。アラビアの砂漠で、存在の昼ではなく、存在の夜という世界感覚に生きる人々が絶対的一神に救いを求めているのだ。「我々には、ちょっと想像もできないほど陰湿な世界で、それはあるのです。陰湿とか暗いとかいうと、何だか嫌がっているみたいですけれども、別に否定的価値評価をしているわけじゃない。客観的事実なのです。『コーラン』を読むためには、暗い夜の感覚といったものが我々にどうしても必要になってくるのです。(中略)深ぶかと闇に包まれた世界。悪霊、妖鬼――よく百鬼夜行などといいますが、そういうものが空中にうごめいている、そんな世界なのです」。

そうした原初的な「存在の夜」は、確かに21世紀の日本に生きるわれわれからはかけ離れたものかもしれない。いや、待てよ、本当にそうだろうか? われわれだってこの社会の表層でなく、深層に目を向ければ「存在の夜」が視野に入ってくるのではないか? さらには自己の外部でなく、内部の奥深くを凝視すれば、どうしたって「存在の夜」と出会わないわけにはいかないのではないか? もしどんなに目を凝らしても、まわりの社会や自己の内部に「存在の夜」が見当たらないのなら、そのひとは『コーラン』はおろか、そもそも宗教や信仰と縁なき衆生なのだろう。


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