アナログ派の愉しみ/映画◎ジョージ・キューカー監督『ロミオとジュリエット』

永遠の「悲恋」のドラマの
真の主役はだれか?


シェイクスピア劇において最も多く映画化されてきたのが『ロミオとジュリエット』だとは、これが人類文化史上最大の「悲恋」のアイコンであることを考えれば当然だろう。そこでは、オリヴィア・ハッセーがジュリエットを演じたゼフィレッリ監督作品(1968)や、レオナルド・ディカプリオがロミオに扮したラーマン監督作品(1996年)などの絢爛豪華な超大作、あるいは、最近話題となった英国ロイヤル・バレエ団によるナン監督のバレエ版(2020)や、ブロードウェイ・ミュージカルにもとづくワイズ&ロビンズ監督『ウエスト・サイド物語』(1961年)のスピンオフ版なども競いあって、世界じゅうの善男善女の熱い涙を誘ってきた。

 
そうしたなかで、わたしにひときわ強い印象を刻みつけたのは、ジョージ・キューカー監督の手になる作品(1936年)だ。トーキー初期の古めかしいモノクロ映画で、スタジオにしつらえたセットが小ぢんまりしているのも物足りないが、それ以上に今日の目で眺めると違和感を禁じえないのは肝心のロミオとジュリエットの俳優だろう。前者がレスリー・ハワードでこのとき43歳、後者がノーマ・シアラーで34歳という、計77歳のコンビがティーンエイジャーの恋愛ドラマに挑んだわけで、いくらメークを凝らしたところでどうしたって無理がある。かく言うわたしも、さすがに椅子からずり落ちそうになったものだ。ところが、この中年カップルが初々しく愛の焔を燃え立たせていくドラマを苦笑しながら追っていくうちに、次第にすっかり取り込まれて、最後には打ち震えるほどの感動を味わっていた。そして理解したのだ。この劇の主役は決してロミオとジュリエットではない、と――。

 
ふたりは仮面舞踏会で出会ったとたん、いきなりキューピッドの恋の矢に射抜かれて、ロミオは宵闇のなかをジュリエットのもとへ忍んでいく。そのあとに続く有名なバルコニー・シーンは、おそらくこの劇のいちばんのポイントだ。そこではジュリエットがひとり窓辺に立ってこんな独白を洩らしている。

 
「ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」

 
恋に落ちた乙女の譫言(うわごと)のようなものだろう。あえて意味を読み取るなら、このヴェローナの街において血で血を洗う敵対関係にあるモンタギュー家とキャピュレット家の、ひとり息子とひとり娘という、とうてい両家から認められるはずのないおたがいの立場への呪詛だろう。だが、さらに深読みするなら、そうした禁断の間柄こそ恋愛を正当化させる、と彼女がすでに気づいていることも示唆されていよう。だから、すぐにふたりはバルコニーで熱烈な抱擁を交わし、翌日にはもう教会で自分たちの結婚式を挙げるといったふうにドラマは急展開していくのだ。もし双方の家が敵対せず親しい近隣同士だったなら、逆にかれらはこんな身勝手な行動に突き進めなかったろうし、たとえ突き進んだとしても「悲恋」にはほど遠い若気の至りの笑い話だ。ふたりはしょせん、性欲に支配されているのに過ぎないのだから。

 
まさしく、真の主役は敵対関係にある両家のほうで、これがロミオとジュリエットの色愛沙汰を「悲恋」に昇華させているのだ。そのことをキューカー監督の映画があからさまに教えてくれる。と言うのも、これが制作された当時、ヨーロッパではヒットラーのドイツ第三帝国が台頭し、アジアでは大日本帝国が大陸を席巻して、ふたたび世界大戦をめがけて軍靴の足音が高くなっていくのをだれしもが聞き取っていたからだ。ドラマのなかのモンタギュー家とキャピュレット家の無法のありさまが現実世界の縮図に見えてくるのは意図されたものであり、そうした状況に真っ向から対峙できたのはベテラン俳優ならではだろう。付言すると、ロミオ役のレスリー・ハワードは、この作品のあとに『風と共に去りぬ』(1939年)でヴィヴィアン・リー扮するスカーレットの初恋の相手を演じたのち、英国へ戻って兵士の慰問活動に従事しているさなかに搭乗機が撃墜されて非業の死を遂げている……。

 
人間社会の不寛容という病を癒すものがあるとすれば、より根源的な哺乳類たる男女の性欲ではないのか。永遠の「悲恋」のドラマが伝えてくるのは、実はそんな身も蓋もないメッセージなのだと思う。
 

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