アナログ派の愉しみ/映画◎倉田準二 監督『十兵衛暗殺剣』

波瀾万丈のチャンバラ劇
ここにあり!


波瀾万丈のチャンバラ劇という言い方をするなら、おそらく倉田準二監督の『十兵衛暗殺剣』(1964年)こそ随一の作品に違いない。なぜなら、実際に琵琶湖のまっただなかで、文字どおり逆巻く波と風に弄ばれながら死にもの狂いの剣戟が展開されるからだ。

 
ときは寛永19年(1642年)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の治世。柳生新陰流の総帥・十兵衛は将軍家剣術指南役として威勢を張っていたが、その眼前に突如、幕屋大休と名乗る荒武者が立ちはだかる。かれもまた新陰流の使い手で、師匠が豊臣方に与したために不遇をかこっているが、本来の印可状を受けた自分こそが正統の後継者だと主張して勝負を挑んできたのだ。かくして、両者は弟子たちとともに近江国の琵琶湖・竹生島に結集して雌雄を決する運びに――。

 
ただし、こうした筋書きにそれほどの意味はない。いちばんのポイントは、決闘の舞台が日本最大の湖に設定されたことだろう。ここにとんでもないものが棲んでいたのだ。

 
中国の明朝の歴史をまとめた『明史』は、「日本は、古(いにしへ)の倭の奴国なり。唐の咸亨(かんこう)の初め、日本に改む。東海の日の出づるところに近きを以つて名づくる也」の文章で日本伝の記述をはじめるが、そのなかでしきりと倭寇の害が取り沙汰され、かれら海賊連中の跳梁跋扈ぶりが生々しく伝わってくる。さらには、関白豊臣秀吉が大軍を差し向けてくるにおよび、朝鮮・中国連合軍との激闘のあげく、かろうじて秀吉の急死によって敗北を免れたとはいえ、はるかな海の隔たりをものともしない島国の輩につくづく恐れをなしたのだろう、日本伝の末尾はこんなふうに結ばれている。

 
「明の世の終はるころまで、倭に通ずるの禁、甚だ厳なり。閭巷(りょこう)の小民、倭を指して相詈罵(あいりば)するに至り、甚だしきは以つて其の小児女を噤(きん)ずと云ふ」

 
明朝末期まで倭人との交流は厳禁とされ、村里の民衆は悪口で「この倭人めが」と罵りあい、子どもらが騒々しいときは「倭人が来るぞ」と脅したというのだ。中国の人々からこれほど憎しみを買った悪党どもは国内でもわがもの顔でのさばっていたはずで、やがて戦乱の時代が過ぎ去ると、江戸幕府は厳重な鎖国を実施するとともに海賊連中に対しても容赦ない弾圧を加えて、列島を席巻していたかれらはたちまち滅ぼされていく。最後に残ったのが、そう、琵琶湖に棲むひと握りの湖族だったのだ。

 
そんな一味と手を組んで時代の寵児たる柳生十兵衛を打ち倒す、と幕屋大休が計画したのは、運命を狂わせられた者同士の連帯感からだろう。圧巻なのは、夜陰に乗じて十兵衛と弟子たちの一行が舟で竹生島へ向かう場面だ。なかばに差し掛かったころ、ニセモノの船頭が舟を止めると、漆黒の水面が泡立って湖賊の男どもがわらわらと浮かびあがって襲いかかってくる。いつしか四方を取り囲んだ舟からは火矢を射かけてくる。柳生新陰流の手練れたちもなす術なく、またたく間に殺戮されて、ひとり十兵衛だけが湖底に沈んで一命を取りとめる……。わたしはこれほど身の毛のよだった殺陣(たて)を他に知らない。

 
柳生十兵衛に扮した近衛十四郎について、われわれの世代はテレビ時代劇の「月影兵庫」や「花山大吉」を通じてユーモラスな印象が強いけれど、この役者の持ち味はチャンバラのさなかで、とても演技とは思えない恐怖に引き攣った表情にあると思う。ここでも、夜が明けて湖賊どもに取り巻かれ、大友柳太朗の演じる余裕綽々の幕屋大休との一騎打ちがはじまると、全身水びたしとなり血走った眼つきで逃げ惑いながら、画面を眺めるわれわれまでも真剣勝負の恐怖に引きずり込む。最後にはちょっとした小細工で相手を倒すのだが、そのお約束どおりの結末にかえって戸惑ってしまうぐらいだ。

 
倉田監督らスタッフは湖賊が存在した史実を知って作品に取り込んだという。こうして波瀾万丈のチャンバラ劇の末、琵琶湖に静謐が戻って、地上の権力にまつろわぬ者どもがいずことも知れず姿を消すと、以後、今日に至るまで二度とふたたび歴史の舞台に登場することはなかったのである。
 

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