アナログ派の愉しみ/映画◎トーマス・ステューバー監督『希望の灯り』

スーパーマーケットは
神聖な空間である


「いざ神聖な空間へ!」

 
スーパーマーケットで働いてみたい、そんな願望がわたしにはある。長らくオフィスのデスクワークがもっぱらのサラリーマン人生を送ってきた身には、週末にスーパーマーケットへ出かけると何やらくつろいで大らかに呼吸できる気がするのだ。日常の営みの延長線上にあるからだけではない。見渡す棚には国内外の食材や雑貨がひしめいて、かぎられた店舗面積だとしても、そこは地理の遠近をものともせず広々と開かれた世界だからだろう。たとえほんの端っこなりとも、わが身を置いて商品の陳列やレジ打ちの仕事をやってみたいと思う。

 
もっとも、実際の現場はそんな甘っちょろいものではなく、この年齢でいまさら立ち入ったところでまわりの邪魔になるだけだとはわかっている。とうてい叶わぬ夢と受け止めているのだけれど、トーマス・ステューバー監督の『希望の灯り』(2018年)を目のあたりにすると、封印した願望がむくむくと込み上げてくるのを抑えられない。

 
映画の舞台は、ドイツの再統一から四半世紀が経過したいま、旧東ドイツのライプツィヒにある郊外型の巨大スーパーマーケットだ。無口な青年クリスティアン(フランツ・ロゴフスキ)が見習いとして働くことになり、店長はぶかぶかの制服を与えて手首の入れ墨を袖で隠すように命じると、受け持ちの売り場へ連れていくときに口にするのが冒頭のセリフだ。いざ神聖な空間へ! かれは飲料部の在庫管理責任者ブルーノ(ペーター・クルト)のもとで仕事を学び、大型フォークリフトを操作するための免許取得に取り組む。また、向かいの菓子部で働く年上の女性マリオン(ザンドラ・ヒュラー)と知りあい、休憩時間に交流しながら恋心を抱く。

 
こうしてはじまった職場の人間模様は、日々を重ねるにつれて一枚二枚と皮膜をはがすように深度を増していった。実は、マリオンには夫がいて瀟洒な住宅に暮らしているのだが、その夫からDV(家庭内暴力)を受けて出勤できなくなる。また、ふだん磊落な態度で接してくるブルーノは、東ドイツ時代には長距離トラックの運転手をなりわいとし、当時のトラック運送人民公社が閉鎖されてスーパーマーケットに明け渡したのにともない再雇用されたという経緯が明らかになる。そしてクリスティアンは、ブルーノに酒を飲みながら問われるまま、かつて悪い仲間と空き巣や車上荒らしをして少年刑務所で2年の刑に服した履歴を告白する。やがて、かれはマリオンの誕生日に花束を届けに出かけ、彼女が職場復帰すると、冷凍室での作業中におたがいの鼻先と鼻先を触れあわせる「イヌイットの挨拶」を交わす。こうした人間関係は、わたしの知るかぎりオフィスのデスクワークの職場ではおよそ生じないたぐいのものだ。ところが、少しずつ微光を帯びていくふれあいが突如、ブルーノの自殺によって震撼させられる。あれだけ気さくに振る舞いながら、どうやら胸中深くにはずっと過去への郷愁と喪失感がわだかまっていたらしい……。

 
しかし、スーパーマーケットの現場はなんら破綻をきたさなかった。ブルーノの葬儀が行われた翌日、クリスティアンはいつものように出勤して、店長から試用期間の終了と飲料部の責任者への昇格を伝えられると承諾する。そのかれがいまや巧みに操るフォークリフトに乗り込んだマリオンは、周囲に人影のない片隅へ導いて、電動リフトをいちばん高くまで上げてからそっと下ろすように指示した。以前にブルーノから教わったと言う、そうやって耳を澄ませると海の波音が聞こえてくる、と――。かくして、映画はクリスティアンの独白で結ばれる。

 
「本当だ、波の音がする。どうして、いままで気づかなかったのだろう?」

 
このラストシーンは、神聖な空間の秘密を解き明かすものに他ならない。われわれの面白くもおかしくもない日常においても、先のコロナ禍の緊急事態宣言下にあっても、スーパーマーケットが社会の安寧秩序を支えるうえに大きな存在感を発揮してきたのは、たんに食材や雑貨の売り場だけではなく、こうして世界に広々と開かれた窓口として立ち現れるからだろう。わたしはやはり、一度はその仕事に携わってみたいという思いに駆られるのだ。
 

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