アナログ派の愉しみ/本◎小松左京 著『日本沈没』

滅亡の危機に
直面したときわれわれは


ことによると、昭和の文学でいちばん強烈なインパクトをもたらしたのは小松左京の『日本沈没』(1973年)ではなかったか。光文社のカッパ・ノベルス上下2巻/本文793ページという長篇小説が累計385万部のベストセラーを記録し、たとえそれを読んでいなくても、多くの国民が「日本沈没」の四文字に接しただけで禍々しいイメージを脳ミソに刷り込まれたことだろう。かく言うわたしも、その後のTVドラマ化(1974年)によって、日本列島が海に沈みゆくありさまを毎週目の当たりにして以来、ことあるごとに突如足元の失われる感覚が五木ひろしのうたう主題歌とともによみがえってくるのだ。

 
この独創的な『日本沈没』にも、実はお手本があったのではないか、とわたしは睨んでいる。デザスター(パニック)SFの古典とされる、フィリップ・ワイリーとエドウィン・バーマーの共著『地球最後の日』(1933年)がそれだ。

 
この作品では、科学者たちが宇宙の天体観測から、ふたつの放浪惑星が接近しつつあり、そのひとつがやがて地球に衝突して粉砕してしまうことが判明する。終末の日が迫り、世界じゅうで喧々諤々の議論ばかりが横行するなか、ほんのひと握りの人々がアメリカのミシガン州の台地に集まり、地球を脱出してもうひとつの放浪惑星へ移住するためのロケット建造に取りかかる。こうしたかれらの挑戦に対して、大統領は支援を表明しながらも、あとから陰鬱な口調でこうつけ加えずにはいられない。佐藤龍雄訳。

 
「そもそも星との衝突によって地球が壊滅するという話自体に疑念を覚えていた――今でもまだ信じられないほどだ。たとえ科学者たちの予言が正しいとしても、この世がもしも目をおおう混乱に陥ったなら、最後は神が手をさしのべ、完膚なき破壊からこの星を救ってくれると信じている」

 
『日本沈没』は、その地球の危機を日本列島に置き換えたものだ。科学者たちが急激な活動をはじめた海底火山の観測によって、地球内部のマントル対流が遠からず日本列島をすっかり呑み込んでしまうことを発見する。こうした状況のもとで、政界の黒幕の老人(昭和の時代ならではの存在だろう)は、ブレーンの大学教授や宗教家らを別荘に召集して、これから日本民族が立ち向かうべき未来の指針を求める。かれらは数日にわたり不眠不休でシミュレーションを重ねた末、三つの選択肢を封筒に収めて提出する。ひとつは日本民族の一部がどこかに新しい国をつくる場合の指針、ひとつは各国に分散して帰化する場合の指針、ひとつは世界のどこにも受け入れられずユダヤ人のように漂泊する場合の指針。それらについて説明したうえで、さらにもうひとつの選択肢が示された。

 
「その、三番目の封筒の中には、別にもう一つ封筒がはいっていて、それには、ちょっと極端な意見がはいっています……」と僧侶はいった。「実をいえば――三人とも、その意見におちつきかけたのです。しかし、それでは、この作業の趣旨にまるであわんので、特殊意見として別にしました」
「つまり――何もせんほうがいい、という考え方です」福原教授は、しゃっくりを一つしていった。「このまま……何の手もうたないほうが……」

 
わたしは『地球最後の日』も『日本沈没』もSFというより、壮大なポリティカル・サスペンスと受け止めたい。人類や国家が滅亡の危機に直面したときにわれわれはどんな決断を行えるのか、そこに他のジャンルの小説では味わえないスリリングな関心を掻き立てられるのだ。アメリカの大統領や、日本の黒幕を取り巻く連中と同じように、おそらくわたしもそのときには現実から目をそむけ、あたかも昆虫が死の擬態を装うように判断停止してしまうことだろう。そうした甘美な仮死状態を脱して、果たして新たな一歩を踏みだせるかどうか、そこがこれらの思考実験のクライマックスをなしている。

 
であるならば、小松左京が見つめていたのはきわめて深刻な自問自答だったはずだ。現在の『日本沈没』角川文庫版では、子息があとがきを書いてこんなエピソードを紹介している。小松は1995年1月の阪神淡路大震災のときには『日本沈没』の作者の責任感から盛んに被災地を取材してリポートしたが、2011年3月に東日本大震災が生じて、今度は大津波と原発事故によってみずからが作中に描いたような事態が現実のものになると、「恐るべき被害を伝える生中継に再びくぎ付けになり、言葉を失うほどの衝撃を受けました。そして、この日以来、心身ともに急速に衰え、ずっとふさぎ込むようにまっていったのです」。緊急入院した小松は、その年の夏に80歳の生涯を閉じる。

 
『日本沈没』は過去の遺物ではない。近い将来に予測されている超大型地震の襲来に向けても、そこからかけがえのないメッセージを受け取れるかどうかはわれわれ自身に懸かっているのだろう。
 

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