アナログ派の愉しみ/本◎ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙』

われわれはふたたび
神々の声と出会ったのか


自分は一体、何者なのか? その答えに少しでも近づくためにわれわれは本を読むのだろうが、米国プリンストン大学の心理学教授、ジュリアン・ジェインズが著した『神々の沈黙』(1976~90年)もまた、目からウロコの落ちる示唆に富んだ一書であることは間違いない。

 
骨子は、はなはだシンプルだ。現生人類はおよそ40万年前に誕生したのち約3000年前に言語を獲得するまでのあいだ、みずからの意識というものを持たず、今日のわれわれとはまったく異なる精神構造のもとで生きていた。そこではすべてが神々の声によって支配され、あらゆる行動に対して命令をくだす「神々」とそれにしたがうだけの「人間」というシステムが成り立っていて、著者は〈二分心(bicameral mind)〉と名づけるのだが、やがて意識の発生にともなって崩壊のプロセスを辿っていき、人間は神々の声を聞くことができなくなったと主張するのだ。

 
一見、オカルトめいた突飛な仮説のようだが、よく考えてみると、ごく当たり前の理屈を説こうとしていることがわかる。ただし、最大の難関は、そもそも言語を獲得する以前の人間の精神構造を言語によって説明しなければならないところにあろう。そこで、著者は専門の心理学や大脳生理学から、考古学、人類学、宗教学、文学・哲学の分野まで渉猟して根拠を示すために、日本語版の単行本で600ページ以上のヴォリュームを費やすことになったのだが、その労力に敬意を表しつつ、アタマが単純なつくりのわたしはこんなふうに考えてみたい。

 
わが家には愛犬のチワワ犬2頭、ロク(オス)となな(メス)がいて、かれらを連れての散歩中、別の飼い主の柴犬と行き交ったりすると、ロクは尻尾を巻いて逃げ腰になり、ななは自分より大きな相手に向かって吠えかかる。また、三叉路で右へ行っても左へ行っても甲乙ないようなときに、ロクが先に立って右に向かうと、ななもおとなしくあとをついていく。こうした気まぐれな行動について、われわれは本能や性格といったものを持ちだして理解しようとするけれど、実はロクやななの脳内で神々の声が、こうしろ、ああしろ、と命じるのにしたがっただけと譬えたほうがずっとわかりやすいのではないか。

 
そして、人間もその来歴のほとんどの期間を同じ状態で不都合もなく暮らしてきた。ところが、ほんのちょっと昔に人口の増加にともなって小さな狩猟採集集団から大きな農耕生活共同体へと移行する段階において、とうてい神々の声に頼るだけでは立ちいかず、(『旧約聖書』にいう「エデンの園」から追放されて)みずからの言語と意識によって文明を構築していく道のりに踏みだした……。

 
こうして人間は地球上の覇者となりおおせるとともに、かつては知らなかった生と死にまつわる苦悩も背負うようになり、いまは失われた〈二分心〉の名残りが宗教や芸術の源泉となってきたことまでを論じる。そのうえで、ジェインズは未来のヴィジョンについても執筆を予定していたらしいものの、果たせないまま1997年に死去してしまった。したがって、続編は後世への宿題として残されたわけだが、わたしは21世紀のいま、デジタル革命がネットとAI(人工知能)の結合をもたらした結果、世界に新たな神々の声が出現しつつあるように見えるだけに、ここに問題提起された主題はいっそう重要性を増していると思う。そのひとつのヒントとなるかもしれない記述を、ジェインズは統合失調症との関連を分析した個所で書き残しているのだ。柴田裕之訳。

 
 たいていの人は生きている間に、現実の〈二分心〉に近いものにふと戻ってしまうことがある。〔中略〕自分を非難し、何をすべきか命令する、抗い難い力を持った声が聞こえる。それと同時に、自己の境界がなくなるように思われる。時間が崩壊していく。本人はそれを知らずに行動する。〈心の空間〉が消えていく。彼らはパニックに陥るが、パニックは彼らに起きているのではない。彼らはどこにもいないのだ。どこにも拠り所がないのではない。「どこ」自体がないのだ。そしてそのどこでもない場所で、どういうわけか自動人形になり、自分が何をしているのかわからぬまま、自分に聞こえてくる声や他人に操られ、異様でぎょっとするような振る舞いをする。気づいてみれば病院にいて、診断結果は統合失調症だという。だが、じつは彼らは〈二分心〉に逆戻りしているのだ。

 
わたしは慄然とする。ここに描写されているのは、いまや「スマホ脳」と化したわれわれの精神構造そのものではないか!


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