アナログ派の愉しみ/映画◎野村芳太郎 監督『砂の器』

あのとき観客は
なぜ号泣したのか


松本清張原作/野村芳太郎監督の『砂の器』(1974年)を初めて観たのは、1980年代半ばにリバイバル上映されたときだった。場所は、そのころ日本橋の三越本店内にあった劇場。規模は小さいながら赤絨毯にソファの座席を配したしつらえで、ときあたかもバブル経済のまっただなかの時期だったから、豪勢なショッピング三昧のあいまに立ち寄ったらしい和装・洋装のご婦人方で犇めいていた。そんな場違いなところにわたしが足を運んだ経緯は忘れてしまったけれど、ひとつだけはっきりと覚えている。映画のクライマックスに差しかかったころ、にわかに客席のあちこちから嗚咽が湧きあがり、やがて号泣となって場内を満たしたことだ。

 
東京・鎌田の国鉄操車場で初老の男の他殺死体が発見される。実は、この被害者の正体を探っていく前半が推理劇としての面白さを支えていて、ついに身元が判明し、捜査線上に容疑者が浮かび上がってからの後半は一転して抒情劇のたたずまいとなる。というのも、殺された三木謙一(緒形拳)は、30年近く前の太平洋戦争末期に島根県の僻村で巡査をつとめていたころ、ハンセン病の父親と幼い息子が野垂れ死にしかかっているのを救ったことがあった。その少年がのちに敗戦後の混乱のなかで過去を消し去り、現在では新進作曲家・和賀英良(加藤剛)として華々しく雄飛しようとするタイミングで、目の前に三木の出現したことが殺害の動機となった。警視庁捜査一課の今西刑事(丹波哲郎)らが真相に迫ったとき、和賀は新作『宿命』を披露するコンサートのステージにいた。みずからのピアノとオーケストラの合奏で清冽な音楽が立ち上がり、そこに故郷を追われた父と子が遍路姿でさまよいながら世間の差別に見舞われるシーンが重なっていくのだ。

 
「この親と子がどのような旅を続けたのか、私はただ想像するだけで、それはこの二人にしかわかりません」

 
捜査会議の席上で今西刑事が口にした、この作品で最も深く印象に残るセリフだ。それはもちろん一面の真実であったろうが、と同時に、だれしもがふたりの強いられた社会的状況をよくよく承知していたというもう一面の真実もあったのではないか。なぜなら、三越の劇場のご婦人方が盛大な泣き声をあげたのも、まさしくこの父と子が漂泊する旅の情景だったからだ。

 
今日ではハンセン病に関する知識がある程度普及したものの、あのころはまだ一定の年齢を重ねた人々のあいだには旧弊な意識の名残りが染みついていた事情もあったろう。ただし、そうだとしてもいまだに違和感を覚えるのは、あそこに集ったご婦人方ならば、どのような事情であれ差別やいじめにさらされた経験は乏しく、およそ共感の持ちようもなかったはずなのに、どうしてみながみな号泣を誘われたのだろう? と――。ことによったら、事情は裏腹だったのかもしれない。これまで自分がなんら差別やいじめに遭わずに生きてきたことに対してひそかな罪悪感があり、それがあのような激しい感情的反応を引き起こしたのではなかったか。

 
さらに現在の目で眺めたときに疑問に思うのは、業病を負って放浪する父と子の行く先々に差別やいじめが待っていたとしても、そこで描写されるのは、せいぜい物乞いに訪れた家で主婦から扉を鎖されるとか、村の子どもたちから石を投げつけられるとかいったエピソードにとどまっていることだ。むろん、映画制作上の配慮も働いてのことだろうが、だとしても、いささか拍子抜けしないではいられない。なぜなら、いつまでもやむことのない教育現場でのいじめにしても、また、社会の隅々に蔓延しているハラスメントにしても、いまやもっと凄まじい現実が眼前にあるからだ。この映画が炙りだした日本の精神風土の歪みは過去の話ではないどころか、いっそう深刻の度を増していよう。

 
社会の差別やいじめをめぐっては、その是正に挑むごく少数の改革者を除くと、われわれは被害者でないとするなら、加害者か傍観者のいずれかでしかありえない。そうやって生きてきたこれまでを忘却することは許されない。まずはその自覚を持つことが必要だろう。世間との馴れあいのうえに成り立つ壊れものの「砂の器」は真犯人・和賀のものだけでなく、ひとりひとりの胸中に食い込んでいるのだから。


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