アナログ派の愉しみ/映画◎イム・スルレほか監督『もし、あなたなら』

ここを渡らなければ
ニッチもサッチも進めない


日本ではとうていつくれまい――。『もし、あなたなら』(2003年)を初めて目のあたりにしたとき、ものの数分もしないうちにそう確信した。

 
珍しい出自を持つ映画である。韓国国家人権委員会という独立機関のイニシアティヴにより、社会的な啓発を目的として、6人の映画監督がそれぞれ20分前後のドラマを競作したオムニバス形式の作品なのだが、こうした背景を知った際にわれわれが思い浮かべる内容からはほど遠い。むしろ、日本の文科省お墨つきの、毒にも薬にもならない退屈な代物とは対極にあると言ってもいいだろう。

 
『彼女の重さ』と題された第1話は、いかにもレベルの低い女子高が舞台だ。生徒たちは授業そっちのけで化粧やダイエットにいそしみ、教師連中も就活対策で手ずからひとりひとりの体重を測定してスタイル管理を徹底するなか、デブでむくんだ顔つきのソンギョンはクラスメートに嘲られ、教師からも「もっと美容にカネをかけろ!」と怒鳴られる始末。母親に向かって、自分も二重瞼の整形を受けたい、としきりにせがんでもラチが開かず、思いあまって、友人とカラオケボックスで「パパ」にサービスして稼いだカネを手に悲願の手術へ。だが、モグリの医者のせいで見事に失敗し、就職試験の面接会場で爆笑を浴びるというストーリーだ。

 
いや、さらにオチがつく。クレジットのあとで撮影現場が映しだされ、このエピソードを担当した女性監督のイム・スルレをカメラが捉えると、なんと主人公とそっくりの外見の持ち主ではないか……。ここまで身も蓋もなく、女性の美をめぐる欲望と現実を暴露した映画をわたしは観たことがなかった。

 
第2話『その男、事情あり』(チョン・ジョウン監督)では、高級マンションの重々しく静まり返った雰囲気のなかにずらりと部屋が並び、ひとつのドアにはそこに暮らす男が性犯罪の前歴を持つことの公文書が張りだされている。別の部屋では、おねしょのクセが抜けない幼い男の子が、母親から罰としてバケツに塩をもらってくることを命じられ(そうした風習があるらしい)、一軒一軒を訪ね歩くものの、どの部屋の住人も相手にしてくれないため、男の子はとうとう、母親が決して近づいてはならないと告げていた部屋のインターフォンを押す……。

 
第3話『大陸横断』(ヨ・ギュンドン監督)は、脳性麻痺の青年がふだんは地下道をうろうろしては通行人からカネを恵まれたりしていたところ、「この足は醜いけれど、もしこの足がなかったらおれはもっと見苦しいだろう」と一念発起して、ソウルの中心地・光化門大通りを松葉杖にすがって単身で横断しようとする。また、第4話『神秘的な英語の国』(パク・ジンビョ監督)では、教育熱心な若い夫婦が幼いひとり息子の英語の発音が上達するように、ディズニーランドのごときファンシーな病院に連れて行って、泣き叫ぶわが子の舌をメスで切開してもらう手術の模様が克明に描かれる。

 
そして、第5話『顔の価値』(パク・クァンス監督)では、美貌の女性との些細な口論がとんでもない異世界を開き、第6話『NEPAL 平和と愛は終わらない』(パク・チャヌク監督)では、ネパール出身の女性労働者がカタコトの韓国語しか話せなかったせいで、だれひとり責任を負わないまま6年以上にわたって精神病院をたらいまわしにされた実話を追っていく。

 
ついこまごまと説明してしまったのは、いずれのエピソードもわれわれの周囲で起きたっておかしくないにもかかわらず、まったく目を向けようとしないでいるたぐいのものだと伝えたかったからだ。韓国と日本の、こうした市井の「人権」に対する態度のギャップはどこから生じているのだろう? かれらが必要以上の執念を持ってこだわっているのか、それともこちらに、目に痛いものは見たくない、臭いものには蓋をしたい、といった心情が優っているせいなのか。両国にとって積年のアポリアである戦時下の慰安婦や徴用工をめぐっての混乱にもおそらく、双方のこうした態度の違いが横たわっているのに違いない。

 
第3話の結びで、車がひっきりなしに往来する上下8車線の大通りを、松葉杖だけを頼りに突っ切ろうとする身障者の青年に警官たちが追いすがり、力ずくで連れ戻そうとするのを不自由な肢体ではねのけながら、かれは叫ぶ。

 
「放してくれ、おれは渡るんだ!」

 
いまここを渡らなければ、もはやニッチもサッチも進めない――。それは虐げられたすべての人々の声であることを、この映画は訴えてくる。
 

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