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私の「故郷」の概念


私の思考の根底を探す旅



私にはたくさんの故郷がある。私は常々そう思って生きている。「出身は?」と聞かれたら育った街である「仙台市」と答える。しかし、私は常にどこか故郷を探し続けている。ここで私が表現したい「故郷」というのは、私の考え方の礎や、心の根底の部分、感性を形作る場所。私はそれが自分でもよく分からなくなる時がある。こんな滑稽な自問が生まれるのは、私にとって生まれた場所、幼い頃過ごした場所、そして育った場所が異なるからであるからだと思う。もちろんこれは全く悪い意味ではなく、私自身が旅に対するアイデンティティを持ち得た由来だと思っている。いわば「故郷」を求めて、私が絶えず旅を続ける理由でもある。


私は時折、自分のアイデンティティの拠り所となる「故郷」が分からなくなることがある。
人は生まれ、育ち、生き、死んでいく。人には誰しも故郷がある。
生まれた場所、幼少期を過ごした場所、少年期を育った場所、大学時代を過ごした場所、そして働いた場所。自分に関係のある場所はたくさんある。ルーツまで遡れば多分もっとたくさんある。

しかし、私は時折、自分の心や理性を形作る場所がよくわからなくなる。
一応、実家がある場所を「故郷」だと定義して、有耶無耶にしている。それがどうにも腑に落ちないときがある。
「私の心はどこから来たのか?」という問いは、思考する人間の土台になるもので、この土台が全ての思考の礎でもあると私は思っている。

今回、自分のアイデンティティとなるものを赤裸々に語ることに、いささかも抵抗がないかと言えば嘘になる。しかし私は日頃から色んなことを感じ、思考し続けている。その営みをこれからも続けるためには、私のアイデンティティの原点となる場所をきちんと文字化したいと思ったのが、このような頓珍漢かつ滑稽とも取れる題名の由来である。

今回は街を紹介するにあたって、その街の自分との関わりや、私に影響を及ぼしている部分を重視したが、私の大切な故郷を知ってもらいたいということと、その街のどんな面が私の精神面に作用したかを改めて考察する過程で、街の歴史などについても触れることにした。ゆえにこの心の中の旅はかなり長くなった。
自分に与えた影響という点を重視して書いたが、また近いうちに別の機会にそれぞれの街を紹介したいと思う。


さて、ここからは少しだけ長い旅に出かけよう。


京都

私の生まれた場所、そして季節香る青春の古都

二十数年前の初夏の頃、私は京都市の病院で生まれた。
京都の初夏は良い。吹く風は柔らかく爽やかだ。そして不思議とあの街の空気には「匂い」がある。あの正体は何だろう。花の匂いか、はたまた香の匂いか。それが季節ごとに移ろい、住む者を楽しませる。
京都の持つ華やかさは、誰もが認めるところたろう。しかし上品な面だけではない。世俗的とも奇妙とも取れるある種独特な雰囲気、色々な顔を持つ街だ。それは京都という街が、渡来人(秦氏・賀茂氏)によって切り拓かれ、同じく渡来系の先祖を持つ桓武天皇によって都とされ、実に1,000年以上も都として発展したこと。長年政治経済や文化の中心としてあり続けたことと無縁ではないだろう。しかも空襲が無かった。日本全土を悉く焼き尽くした無慈悲な戦火は、あの日本一重要な都市を焼かなかった。これは日本人にとって僥倖だった。今でも日本において、最も古いものを残しつつ、時代の最先端を追求し続け、進化し続ける街だ。

鴨川は市民の憩いの場。
鴨川の美しさと穏やかさは京都の魅力の一つだ。


京都人は「いけず」だと言われる。京都の人以外はそう思うかもしれない。しかし、ならば同時に「日本一の気遣い上手だ」という注釈も付けねばなるまい。(ある一面として)閉鎖的・陰湿にも取られかねない気性があるかと思えば、新しいもの好きで、優しさにあふれる気遣いが心地よいと思わせる空気すらある。そんな一癖も二癖もあるのが京都人。付き合うのは簡単ではないが、彼らの生き様は面白いから、話を聞いていて飽きない。
京都人を「閉鎖的」とは評したが、それは先述の通り一面に過ぎない。この街は長らく都であったから、この街には実に多様な人々や文化を受け入れるだけの素地があるし、多様性を呑み込んでもなお有り余るほどの、豊富な文化的資本もある。オーバーツーリズムの問題こそあれども、だ。
私はそんな京都という街を愛しているし、一年に何度も訪れる。(親類や友人たちの居を訪ねるという意味もあるが)

だが私は言い切れる。私には京都人としてのアイデンティティはない。確かに生まれた場所は京都であるし、大切な場所ではある。しかし私は京言葉を話さないし、京都の風習を本質的に理解していない。その意味では、完全に京都から見て「よそ者」であるし、私が京都人として振る舞うことがこれまでなかったように、これからもないだろう。しかし京都は私の生まれ故郷だ。それは絶対に揺るがない。

また、京都は生まれ故郷でもあるが、同時に大学生時代を過ごした青春の街でもある。 
この街が纏う爆発的エネルギーは、若き学生たちのエネルギーに由来するものだと思う(これは元学生の思い上がりかもしれないが)。それはこの街の魅力の一つだ。
雑多な学生街、少し汚いけど安い定食屋、全国では珍しくなりつつある老舗の喫茶店。そして学生たちや教員たちに支えられた、何よりも学術と信念、科学的思考を重んじる文化。私はこの街で学生時代を過ごしたことで、一人の人間として思考することができるようになったと思う。

この街で学生時代を過ごした人で「呪い」にかかる人は実のところ多いようだ。社会人となりこの街を出た後も、この街で過ごした思い出を常にどこかに探し求めてしまう。寝不足や金欠でとても大変だったはずなのに。教養、学問、サークル、酒、そして友人たちとの議論に明け暮れたキラキラと輝く日々の美しさに、社会人になってから気づくのである。
故郷とは異なるが、やはりこの街で過ごした生活と身につけた思考回路は、間違いなく私のアイデンティティの一つになっている。京都の学生時代がなかったら、多分私は単なるロボットとして一生を生きようとしただろう。教養を求めなかったし、理性的な人間であろうなどとは思わなかった。理性を獲得し、思考し続ける一人の「人間」として歩み始めた街は、私にとってはとても大切な場所だ。

私の母校の桜。
学生時代、私は大学の桜が好きだった。
大学近くのラーメン屋は懐かしい味。

広島

幼子の私が見た美しい川と平和の街


私が生まれてから3歳の頃までを過ごしたのが広島市。つまり幼少期の一時期を過ごした。
広島の川は美しい。街を縫うように流れる太田川や元安川。他にも多くの川が街をゆったりと流れる。昼のキラキラとした川面の穏やかさ。夜、橋の電灯をゆらゆらと川面に映すたおやかさ。
幼い頃に母に連れられて歩いた平和公園ののんびりとした空気、流れる川の穏やかさ。「戦争」「死」と言ったものを全く理解できない幼児の私だったが、穏やかでどこか寂しい空気を纏うあの川辺を、幼いながらも何か特別な場所として認識していたことを覚えている。
幼い頃の広島の思い出だけではなく、数年に一度の広島への家族旅行があったから、私は平和を何よりも愛する人間になったし、広島の美しさは行くたびに思うことである。
広島の四季は美しい。特に好きなのは初春と秋。宮島の美しさは、世界でも類を見ないが、厳島神社の初春は格別だ。早朝のピリリと引き締まった冷たい空気と、靄のかかった宮島の姿は、あの聖域を最も美しく幻想的なものにする。そして芸州の各地で楽しめる秋。紅葉の真紅は山々を染める。

毛利氏の一大事業によって海を埋め立てて建設された広島の街。当の毛利氏は関ヶ原の戦の結果、不本意にも敗軍の将となり長門へ減封という憂き目を見るが、わずかな福島氏の治世、そして浅野氏の長い藩政時代を通じ、広島という街が形作られた。しかし、やはりこの街を大きく変えたのは近代になってからだろう。
広島の街は、近代において、日本を代表する軍都として繁栄した。しかしそれは、辛苦の歴史に繋がるものでもあった。
1945年8月6日。世界初の核爆弾は、この街を破壊し尽くし、残虐の限りを尽くした。呉など他の地域でも激しい空襲を受けた。軍都ゆえ、工業都市ゆえの悲劇だったが、その悲しみは筆舌に尽くしがたい。
世界でも類を見ない凄惨な歴史は、この街を近代軍事都市から、世界的な平和都市へと変えた。
耐え難い苦しみをも乗り越え、発展させてきた広島の先人には、頭が下がる思いだ。
広島が持つ独特の文化(特に平和を希求する文化)は、日本の希望でもある。

そして多くの広島人が持つ郷土愛の強さと団結力。この街の情熱は日本一だろうと思う。街を覆い尽くす「carp 」のロゴと真紅の色は、広島の街によく似合う。
私は広島という街が好きだ。以前は二十数年間に渡って家族ぐるみでお世話になった店があり、数年に一度通ったものだが、既に閉店してしまった。広島との縁は今となっては無いに等しい。しかし、私は心のどこかに広島という街への愛着があり、街が時折私を誘う。今となっては広島との縁が限りなく希薄である今の私にとって、その愛着は郷愁とさえ呼べるようなものではなく、私の心の中に僅かに留まる残り香のようなものかもしれない。しかし、広島人と出会った時、彼らは私を「広島人」として扱ってくれる。その懐の広さを感じる時、私の中に僅かに残る広島人のアイデンティティが呼び覚まされる。
しかしながら、私が「広島人か」と問われれば否定する。幼い日々の記憶は少しあるが、やはり広島弁は解さないし、熱烈なカープファンでもない。今となっては縁もない。アイデンティティの一部がこの街のどこかに潜んでいることは認めるが、やはり広島人ではないと思う。しかし広島に住み、この街で幼い日々を過ごした事実は、決して変わらない。広島は私の故郷だ。


鯉城(広島城)の夜景
瀬戸内海の美しさ
広島名物お好み焼きは絶品


仙台

少年時代と今を紡ぐ杜の都

私が3歳から高校三年生の少年時代までを過ごした街。そして今は実家があり、今も住んでいる街。
ここには多くの思い出がある。無邪気だった幼少時代のこと、読書とスポーツに明け暮れた小中学校時代、受験勉強とキリスト教神学に打ち込んだ高校時代。紆余曲折あって今は9年ぶりに住んでいる。
仙台は綺麗な街だ。よく整えられた都市景観は日本一だと思う。木漏れ日の美しい青葉通り、芸術と緑の定禅寺通り、文学の面影を残す晩翠通り。そして駅前に張り巡らされたペデストリアンデッキが、仙台の景観を唯一無二のものにしている。
仙台伊達藩の城下町として、近代以降は軍都と学都として発展してきた街は、空襲の焼け野原から立ち直り、今や美しい杜の都となった。
空襲によって焼け野原になった仙台の街。人々はそれをバネにして立ち上がった。
旧来の街並みを大きく変貌させた都市計画に、戦後のバラック小屋から始まった仙台名物の牛タン。今は古い街並み、武家の街の面影を見ることは難しい。しかし、整備された街は、初夏の青葉まつり、夏の仙台七夕、秋のジャズフェスティバル、冬の光のページェントなど、四季折々の祭りが行われる。

私は仙台が好きだ。この街の魅力は、美しい緑、整えられた景観、街角に溢れるグルメだけではない。
一介の地方都市に過ぎないこの街には、質素ではありながらも文化の素地がある。今まで多くの芸術家や文学者、漫画家を輩出し、あるいは彼らの想像の源となり続ける街には、おそらくこの街独特の魅力があるからだ。

仙台人は隠し持っているプライドが高い。これは伊達氏の武家文化を濃厚に受け継いでいると思う。質素ながら共同体を重んじる態度は、やはり武士の文化だろう。一方でこの街の人々が持つ発想力と柔軟性には、やはり芸術や音楽の文化が根付いていることを感じさせる。それは仙台伊達藩が「伊達な」文化に莫大な財力を注ぎ込んだからなのか、それとも仙台人がモットーとする、地味で質素だが「伊達で粋なこと」を重んじる文化に由来するのか。しかし同時に、この街の人々が持っている殊更に強い都会意識は「田舎と都会のちょうど良い大きさ」という紛れもない「田舎街」としての自己意識の裏返しかもしれない。

またこの街が東北地方にある以上、未曾有の大災害である3.11を抜きに語ることはできない。あの甚大な災害は、この街やこの街に住む人々のどこかに今も暗い影を落としている。それは沿岸部に近づけば近づくほどに感じることだ。日本だけでなく世界中の多くの人々の支援、そして他ならぬ東北人たち自身の努力によって、既に12年が経った今はインフラ面での復興は完成が見えてきた。しかし、人々の心に刻み込まれた災害の記憶や苦痛は、より厳しく辛い経験をした人であるほどに立ち直るのが難しい問題だろう。
しかしあの災害を経てもなお、人々は海を愛しているし、海の恵みに日々生かされている。ただ、やはり悲しみや苦痛は簡単に消えるものではないだろう。
「仙台人か」と問われれば、「多分仙台人かも」と言うかもしれない。でも私は仙台の文化を実はあまり理解していない。父が福島の会津、母が山形の最上の出身ということもあって、私のアイデンティティは仙台ではなく、むしろ東北という地域に集約されていると思う。仙台を愛しているが、それが全てではないのだ。しかし多分この街は私の故郷の一つであり続けると思う。

仙台名物牛タン。戦後間もない頃に生まれたソウルフード。
肉厚でジューシー、旨味たっぷり。
初夏の定禅寺通り。緑が美しい。
長町の広瀬川河畔から見た市街地。青葉城恋歌で有名な「広瀬川」は仙台の美しい景観を形作っている。
仙台駅前を網羅するペデストリアン・デッキ。
利便性と機能美を兼ね備えている。

静岡

大人の苦楽を知った街


就職して赴任した街。それが静岡。職場では楽しい思い出もあったし、辛い時間もあり、心を病むなどして苦しい思いもした。私に仕事の大変さを、生きることの難しさを教えてくれた街。
たった3,4年しか住まなかったが、私の人生では濃厚な時間だった。
あまり良い思い出ばかりではないのは事実だが、静岡は優しい街だ。現代都市ながら未だに昭和の景観や雰囲気を残す街は、静岡の特徴だろう。そして人々のおおらかで温和な気性も、静岡人の特徴だと思う。

戦国時代以降の歴史において、この街は日本を代表する文化都市「駿府」だった。室町将軍家足利に連なる名族今川氏による文化的投資に始まり、徳川幕府が要衝として重視した経緯がある。特に徳川家康という日本史上最も権力を持った男が、この駿府という街にアイデンティティを感じ、文化経済の両面で多大なる投資をしたことが由来だろう。江戸時代初期には、全国から一流の商人や大工などの職人を集め、駿府の街を作り上げた。

私は静岡が好きだ。まず気候が良い。冬も夏も過ごしやすい。またこの街の温かい人々は、よそ者の私を優しく迎え入れてくれた。静岡人は優しい。それは駿府の時代から街道筋の要衝として発展してきたことと無縁ではないだろう。来るものを拒まない優しさがある。東海道沿いの大都市としての顔を持ちながら、しかし昭和の頃から変わらぬゆったりとした田舎の雰囲気。それは街並みだけでなく、お節介な近所のご老人や飲食店や商店の店主さんからも強く感じる。まだここには昔の日本が残っている、と。
またこの街の面白いところは、静岡と清水のゆるやかな対抗意識だ。のんびり屋だが、したたかで商売上手な駿府城下町の静岡と、穏やかさだけでなく海と共に生きる強い気性を持つ港町清水。対立してるわけではないが、合併して20年近く経った今でも、やはり別の街という対抗意識が今もどこかにある。しかしどちらも穏やかさを持ち合わせているから、この街の人々は柔和である。

私は静岡人ではない。故郷でもない。しかし、私に多くを教えてくれたこの街を、私は今でも大切に思っている。

日本平からの眺めは絶景
駿府城公園の夜景
静岡といえば鰻。静岡は鰻の名店で溢れている。


大津

歴史薫る美しき湖の街


私の祖父母が住んだ街。それが大津。
私が生まれた頃にはこの大津に祖父母が住んでいた。
大津は美しい街だ。目の前に広がる琵琶湖は、いつでも私を迎え入れてくれた。穏やかで、キラキラしている。それでいて深く青々とした水面は、私の全てを受け入れてくれるようだ。
今では一介の地方都市だが、京都の近くにあることで、歴史的にはかなり複雑で重要な役割を果たしてきた。
一つ目は日本の仏教寺院の総本山ともいえる比叡山延暦寺が所在し、その門前町であること。比叡山が1,000年以上受け継いできた仏教の伝統は、日本の神社信仰や自然信仰と合体し、独特の宗教体系を持つ。また比叡山の特殊性は信仰面のみにとどまらない。中世には全国に多数の荘園や末社(とそれに付随する人々)を所有して、莫大な財力と武力を駆使し、日本の中枢から末端に至るまで、強大な影響力を誇った。また多くの衆徒(僧兵)を擁し、強大な武力を持った一大権力機構としての側面は、比叡山という存在を、日本史においてかなり特殊なものにしている。(中世には多かれ少なかれ宗教勢力は荘園を持ち武装した。しかし比叡山が誇った力は、他の寺社勢力、果ては朝廷にすら武力行使を躊躇しないほどで、その実力と影響力は桁外れである)
二つ目はかつての日本の大動脈たる琵琶湖のほとりであること。江戸時代以前の日本の物流は、日本海を中心にしたネットワークだった。全国の輸送ルートは、日本海沿岸各地から敦賀の陸路を辿り、長浜や今津などの港から琵琶湖の舟運によって都近くの大津までアクセスする。そこから更に輸送業者によって都へと運ばれる。この一連のルートにおいて大津という港が持った重要度はこの国の経済史においては計り知れない。必然的に大津には問屋などの金融業者や、馬借や車借などの運送業者、普段は漁業を生業としながらも、舟運を護衛し時に略奪すら行った湖族(海賊のような人々)など、様々な勢力が大津を闊歩した。三つ目は、古代豪族の本拠地であったこと。元は渡来系の一族である小野氏は、古代日本において外交・文化・軍事の面で大きな功績を残した。古代日本の外交を担った小野妹子や、文字や和歌に秀でた小野篁や小野道風、小野小町。古代の軍人として活躍した小野好古など、各分野に多くの逸材を輩出した小野氏は、紛れもなく名族である。彼らが湖西の地に根を下ろしていたことは、この地域が古くから重要だったことを示している。
私は琵琶湖が、大津が好きだ。縁がなくなり、大津に行くことが無くなった今でも、私は自分を「湖の子」だと思う。
でも、当然ながら大津人ではない。

湖西の高島市にある白髭神社は近江随一の古社
母なる琵琶湖
長浜名物の鴨鍋


会津若松

武士の心を残す歴史と伝統の街


私の父の故郷だ。
会津の四季は美しい。青田の若々しさ、夏の情緒、秋の稲穂、冬の白雪。日本の原風景がこの地域には今も残されている。
そしてこの街を語る上で忘れてはならないのは、やはり歴史だ。特に会津の歴史に触れるには、やはり幕末の動乱を抜きにしては語ることができない。

この街は会津藩という直系のルーツがありながら、会津藩の遺伝子、その財産を直接引き継ぐことはできていない。その理由は、戊辰戦争によって新政府軍に街を破壊し尽くされ、戦後に武士階級の多くが新政府(会津では「西軍」という)の命令で斗南藩へと減封されたからだ。つまり今の街は明治時代以降の街をベースに作られたものだ。もちろん城下町を基礎にしてはいるが、文化的にもインフラ面でも一度断絶を経験している経緯がある。現在は長らく観光都市として歴史ファンを中心に人気があり、再建された鶴ヶ城や、再現された会津城下町の雰囲気を楽しむことはできる。しかしながら城下町の主役たる武士たちは、明治以降の時代に陸奥斗南や東京へと散り散りになってしまったため、会津若松で武士階級の子孫というのは実のところ多くはない。
しかし、新政府による徹底的な破壊を経てもなお、会津の精神は決して消えることはなかった。伝統を重んじる(封建的な)会津藩の思想は、今も会津に生きる人々の中に根付いていて、やはりこの街が江戸時代最強を誇った会津藩の系譜なのだと感じさせる。
概して会津の人々は頑固で真面目だ。真面目過ぎると言っても良いかもしれない。しかし口数は少ないが、優しくて温かい。伝統を何より重んじる会津藩の片鱗を見ることができるように思う。
私は会津人ではない。(私の曽祖父から父までの代は会津人だったが。)しかし、頑固で保守的な会津の心は、私の精神に宿っていると思う。同時にこの精神を自分で客観視して振り払うのに大変苦労した。それに父の影響もあってか、幕末明治の歴史観は完全に会津藩寄りなのだ。
戊辰戦争の会津の説明をするためには、必ず意識しなければならないことがある。それは「正義は一つではない」ということだ。薩長土肥の雄たちが作り上げた偉大な近代日本とその建設プロセスは尊敬に値する。しかしその陰で夥しい量の血が流れ、そして人々の苦しみがあったことは、近代日本と現代日本の歴史の中で埋もれてしまったと思う。会津が経験した辛苦の歴史は、今や一介の地域史となっているが、やはり多くの日本人に知ってほしいと思う。近代日本建設の中で流れた血には、日本人であれば誰であれ敬意を表さねばならないと思う。
歴史という学問において、正義が複数存在し得るということ、敗者にも正義や歴史があることを私は知ってほしい。そしてその意識は、やはり私の中に会津のアイデンティティがあることを再確認させる。
そして、東北人としてのアイデンティティは、この会津からも来ていると思う。

会津ソースカツ丼は会津地方のソウルフード
鶴ヶ城は会津若松のシンボル
磐梯山は会津の名峰

最上郡(山形県)

山と川に囲まれた村落


私の母の故郷だ。
夏は凄まじい暑さだが、冬は雪深い。
豊富な温泉、山の幸に恵まれている。
しかしこの地域の特異な点は、山村特有の閉鎖的な雰囲気だけではなく、むしろ港町のような開放的な雰囲気さえも兼ね備えている点である。
それはひとえに最上川に由来する。米沢で有名な山形県南部の置賜地方を源流にして、村山地方、最上地方へと北上したのち、西進して庄内地方を通り日本海に注ぐ最上川。この川は幾重もの山に隔てられた各地域同士を結びつけ、羽前国(現山形県)としてのゆるやかな一体性を持たせてきた。
江戸時代以前、最上川を多くの舟が行き交った。
最上川は、羽前で産する米や紅花、材木などの産品を上方や他の地方へと運ぶ物流路になり、さらに京都や上方の産品や文化を羽前国全体へと運んだ。
私はこの地域のことをよく知らない。墓参でたまに行く程度だ。
しかしこの最上郡は、私の血の源流であり続ける。ここも東北人としてのアイデンティティという意味で、一つの源流であると思う。

霊峰の多い山形県。画像は春の月山。(新庄市から)
大蔵食堂の名物「味噌ラーメン」は絶品。
「五月雨を集めて疾し最上川」は芭蕉の句です。


まとめ

私には故郷がいくつかある。
それは様々な形で、大なり小なり私という存在の中に影焼き付けている。
その程度は実に様々で、私の人間性に関わるような場所もあるし、私の心にどこか郷愁を持たせる場所もあり、私の身体的血統的なルーツに過ぎない場所もある。
私が今後も様々なことを感じて、考えていく中で、これらの地域の存在は私の根幹を成し続けるだろう。このことを再認識できたことで、私のこの長い考察の収穫はあったと思う。
もちろん人の思考の根幹は故郷だけではない。教育や情緒、人間関係も多大に影響する。
それらについては、また機会があれば書くことにして、今回の考察を締めにしたいと思う。

長い旅にお付き合いありがとうございました。

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