熱量はないけど好きだったことを思い出した
大人になればなるほど、
悲しいかな、
潜在意識の自分と遠ざかってしまう
小さい頃は、二人三脚で歩いていたはずなのに、
いつのまにか環境か、
はたまた分別か、
とりまく人か、
顕在意識が我が物顔で、潜在意識の存在をすっかり忘れてしまう
顕在意識優勢は、
分別ができていろいろ無意識に我慢をしてしまうこともある
今回はそんな「しょうもない我慢を無意識でしていた!」という
どうでもいい話です
朝、8時30分の電車は、
先頭車両に乗って、運転士さんと同じ目線で
まっすぐ前を見るのが大好きな、わ・た・し
(若干、てつ的な、、、?)
ある時期、数日違う時間帯の電車に乗っていて、
ひさしぶりに8時30分の電車に戻ると、白髪のおばさんが
わたしのポジションにおさまっている!
えー、好きな場所とられた、
とすごく残念な気持ちになった
でも、
もともとわたしのお気に入りの場所だし、と思い、
何も考えず、
次の日、先にその場所におさまり、先頭の景色を見ていて、
ふと、振り返る
悔しそうに、白髪のおばさんがわたしを
厳しい目で見つめていた、、、
正直、めっちゃ怖かったが、
そういう目つきかもしれないし、
別に悔しがられる筋合いもないけれど、
その恨めしそうな目つきがイヤだったのだと思う
それ以後、わたしは遠慮して先頭車両に乗らなくなった
それも無意識に
それからしばらくたって、
ふと「あ、わたし我慢してるんだ!」と気づいた
突拍子もなく
本当は真ん前で、線路をまっすぐ進んでいく景色を見ることが好きだったのに
それで心がほどけていったのに
案外整える時間だったのに
我慢する必要あるのか?
白髪のおばさんは、追加料金を払って、
その場所をリザーブしているのか?
おばさんの場所か?
ちがーう!
おばさんを押しのけてその場所を確保するのは
いかがなものかと思うけど、
先に待ってるのに、あとから来るおばさんに遠慮することない
わたしはうんと奥の、
ちっさくてどうでもいいことだけど、
ほんとは好きなこと、にフォーカスし、
自分を最優先することにした
ほんとのわたし(潜在意識)は、
おばちゃんに遠慮せず、
真ん前の場所で、
線路を進んでいく光景を楽しみたかったのだ
不思議と、
毅然と自分を優先してあげると、
白髪のおばさんとバッティングしなくなった
(なぜか隣の駅から乗るようになった)
最近は「好きだったのに我慢していたこと」
を、すくいあげていくのが課題のような気がする
たとえば、
「スムーズでないから」「お金がかかるから」「手間がかかるから」
こんな理由で、
顕在意識のわたしはシステマティックな部分があるので、
無意識に排除していた行動が多いと
この電車の件で気づけたな
無意識に我慢していたところを排除して、
彼女(潜在意識)を喜ばすことができたら、
わたし(顕在意識)ももっと軽やかに、
日々を生きていけると思うのだ
次の課題をたのしも
写真は、、、
実はわたし20代の頃、1970年代の映画が大好きで見まくりました
その中の松本清張原作の「砂の器」
今でいう聖地巡礼してきました(一人旅)
出雲の「亀嵩」です
楽しかった、、、
出雲行って、出雲大社行かない人は珍しいと思いますが
ただ亀嵩に行くだけのことだけど、
行くことが楽しかったのです
これこそ、潜在意識を優先した行動だったのかな?と思えます
まったくのエゴなし
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