見出し画像

知的サイズを拡げるという選書基準(読書論エッセイ)

知的サイズ。この言葉を最初に目にしたのは、花村太郎著『知的トレーニングの技術』においてだった。
自分の知的サイズをうんと拡げること。
これがいま私自身が心のうちに決めている個人的な目標である。
知的サイズとは、人類が人知の限界を押し広げ、理解してきた知的到達のうち、一人の人間が、どれくらいの大きさの理解の振れ幅を獲得しているか、そして自らの知的生産にどれほど活かしているか、と定義できる。
こんなことを書くといかにも仰々しく見えるかもしれない。あまりにも自分の才能や現状の丈と合っていないだとか、いろいろな皮肉が聞こえそうである。
しかし、私自身はこの目標をその実現度で測るのではなく、日々の習慣に根差したささやかな意識とみなしている。
つまり、知の世界を愉しむ上での内なる基準とでもいおうか。
たくさんの蔵書を持ちたいだとか、何かの分野の権威を目指したいかだとか、そういうわけでもない。
今のところは、ただたんに、読みたい本を選ぶ際の基準としているだけである。
そう、この世界に存在してきた、あるいはしている書物のうち、じっくりと時間をかけて徹底的に読み込み、血肉とすべき書はほんのわずかである。
一人の人間が一生のうちに享受できる知的創造の成果物には、むろん限りがある。
たくさん読み散らかすより、数少ない優れた書物を精選して我がものとすること。その意義は大きい。
本を読む際に、自分の知的サイズを拡げてくれるかどうかで本を選ぶこと。
これはあくまで私個人が採った見方である。
知的サイズを拡げられるのは、なにも書物だけではない。音楽や絵画や映画などだってもちろんある。限られた生涯のうち、これだけは絶対見たり読んだりしておきたい作品はどのくらいあり、どれを選ぶか。
この視点はある本から教わった。人生が豊かになるアイデアであると感じた。
ここまで書いてきて、知的サイズを拡げることとは、つまり教養を豊かにするプロセスに近いのだと捉えらえる。
教養はそれ自体を楽しむことにも意義があるが、知的サイズを拡げるとは、自分が親しめる知的世界が拡げる喜びであり、自己の知性を磨き続けることであり、自らの人生を自らの意思で切り拓く姿勢である。
知的サイズを拡げるという目標に力となってくれる本を2冊ご紹介したい。
私自身が無意識にこの基準で選んだ本である。
この本は、必読の教養書400冊がブックリストで付いている。

このSF小説も、知的サイズを拡げてくれる優れた本だと私は感じた。
文庫版で読みました。

最後に私のnoteの書き方について。
「である。」「 だ。」といった形式で書きにくい。おそらく、SNSなので、読者の目線が気になるのだろう。しかし堅苦しくはあるが、作品の完成度を考えてこの形式で基本統一する。一方で「だけれど」は適時使用する。
ご了承ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?