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愛読書が意味するもの(読書論エッセイ)

ショルダーバックに入れていた飲みかけのコーヒーが少しこぼれていた。公園の神社にいたのだが、私は少し焦って、おそるおそるバッグの中に入れていた本にコーヒーがこぼれついていないか確認した。
やっぱり。もしものために手提げの布に包んでいたのだけれども、本の端と最初の数ページの底辺部にしみがついていた。
本の匂いを嗅ぎ、コーヒーの香りと本の香りがいい具合に混じったほんのりとした香ばしさを確かめると、私は思ったほど動揺していない自分に対して安心した。
その本は、私の愛読書であり、心の書であるマルクス・アウレーリウス著『自省録』である。
冒頭からページを開いて最初に目に入るページにこう書いてある。
「本の内部を見よ」
贈り物ではないので、自分で書いた文だ。
私は自分の愛読書を決してなくしたくはない。できれば汚したくもない。
人に貸すこともないだろう。だが、そうした執着は本質ではない。
本が劣化するのは避けられないし、冒頭の出来事のようにこの本が汚れない保証が絶対あるとはいえない。それは自分のコントロール外にあることである。
マルクス・アウレーリウスの言葉である、「自己の内を見つめよ、内にこそ善の泉がある」から連想して「本の内部をみつめよ」を記したのだろう。
自分の愛読書が汚れたとき、動揺しなかったと書いたが、実を言うと私はほっとしたのだ。これで、人生が終わる瞬間までこの本と連れ添うんだというはっきりとしたイメージができたからだ。
愛読書とは。私が考える愛読書とは、書店で買ったとはいえ、決して経済的価値ではかれないものだ。いや、モノではないかもしれない。
なぜなら、自分の精神と完全に一体化し、深化が極まるまで、徹底して付き合う書物だからだ。何十回どころか、何千回、何十万回と読み込むだろう。
論語の「韋編三絶」ではないが、その果てにはもうぼろぼろだろう。
愛読書が経済的価値で計れないとは、どんなにお金を積まれても渡さないことを意味する。文明が崩壊して、書物が喪失するなか、とうとう最後の版になり、希少価値がありえないほど高くなったらどうするか。そうしたら、その時こそ、人類の文明を存続させるために、自分でさらに読み込み、保存・継承活動に参加するだろう。もっとも、電子図書館が機能すれば作品が喪失する心配は減るかもしれないが。
『自省録』。いや、多くの優れた書物に言えるが、それらのパッケージではなく、作品の精神的価値に値段はつけられるだろうか?
この世界には経済的価値ではかれないものが山ほどある。愛読書もそのひとつだろうか?少なくとも私にとってはそうである。ただ、私はその愛読書のパッケージよりも、内部に宿る精神性にこそ、意味を求め、重んじる。もちろんできるなら、本の物体的クオリアも堪能し続けたい。
愛読書に出会えることは、とても貴重なことである。幸運なことでもある。
ただ、愛読書としたいと欲求すること。意識するかどうかにかかわらず、原点はこれだと感じる。
かつて、書物がとても高価な時代があった。しかし、今でも、内容に変化はないのではないだろうか。書物を求める者にとって、その本の精神性と一体化する楽しみこそが、真に求めていることなのかもしれない。私はブックデザインに魅了されることも多々ある人間ではあるけれど。終.

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