見出し画像

古代メキシコ展へ足を運ぶ。(ミュージアム日記・思索の記録)

東京国立博物館の「古代メキシコ展」へ昨日、足を運んだ。
友人と午前中に待ち合わせ、入場。かなり賑わっていたが、展示を見る時間はそれなりにとれた。
展示の内容は豊富であった。彫像や器、人形や石像など、数々の遺物やパネルの展示を堪能することができた。
印象的なものを2つ挙げたい。

捕虜かシャーマンのようなマヤ人が手を縄で縛られ、斜め横を向いているレリーフが掘られた石板。
戦闘の結末で、火の粉が散り、戦場の辺り一面が燃える光景のなか、太鼓が鳴り響き、捕虜である負けた王が両手を後ろに縛られ、敗北した悔恨を苦く噛み締めながら、敵の部隊に連行されていく。
そのような壮絶な光景をこの展示を見ながら想像した。

アステカの賢明な男性像を意味する黒い彫像。この彫像を見て、アステカの倫理観とは如何なるものなのかと連想した。古代ギリシアや古代ローマの賢者像は、われわれにとって、比較的馴染みがあるけれど、古代アステカにも図書館に類するものがあったのかは知らないけれども、きっと賢者と形容したくなるような賢明で倫理的にも崇高な知識人がいたのだろう(か)。
(ただ、アステカの倫理思想というものがどういったものなのかはまだ知らない。興味を持った。)
この展示からは、そのような話をした。

展示会場の音楽的演出も場によく合っており、歴史の深淵を覗き見る特別な体験を提供する場に相応しいようなメロディーが流れ、展覧会での体験をより豊かなものにしてくれるようであった。

友人と次のような会話をした。

人間は進歩したのだろうか。ピンカーは『21世紀の啓蒙』でそれをデータアナリシスを駆使して立証しようとしたね。
戦争や暴力の頻度は、先史・有史以来と較べて、圧倒的に減ったけれども、犠牲者の規模でいえば、近代以降の方が、大きい(のではないだろうか)。
第二次世界大戦や30年戦争は、人類史上でも、最も多くの犠牲者を出した出来事に数えられる。マシュー・サイドの著書にもある通り。
ここ200年で暴力の頻度は圧倒的に減った。
その一方で、果たして知識の質は深まっただろうか。論文数は爆発的に増大しているのに、学術的に重要な発見の数は、アインシュタインの頃と変わっていない。もしかしたら、学術上の成果や発見の進歩も、衰退というか、スローダウンしているのではないか。
(この学知のスローダウン化は、とある本で示唆されていた意見でもある。
数学の世界では、ヒルベルトで既にユークリッド的段階・古典的段階に達し、それ以降は、アポロニオース以後であると。)
古代メキシコ文明は驚嘆・驚異の連続で、とてもワクワクするけれど、その時代にタイムマシンで行きたいとは思わない。18世紀という時代は、一つの画期で、それ以降受け継がれた価値観や倫理観にわれわれは馴染んでおり、この人道主義革命の恩恵が現代のわれわれにとって計り知れないのではないだろうか。
しかし、一方で、かつての西洋的合理に馴染まないとはいえ、古代メキシコ文明の知識観や世界観には、とても惹かれるものがある。

今回の展覧会は、それほど疲れがなく、自然体でみることができた。それはなぜだろうか。私が思うに、自分の知識がほぼないという状態を自覚し、むしろまっさらなタブラ・ラーサ的鑑賞を意識したからからかもしれない。
タブラ・ラーサとは、「空白の石板」という意味で、例えば、学習や経験によって書き込まれていく前のまっさらな心の状態である。たしか啓蒙思想家の哲人、ジョン・ロックの思索による。ロックは、幼児が認知上のタブラ・ラーサから、学習し、知識や経験を獲得していくプロセスを経ていくと仮定した。
つまり、アンラーニングに少し近い。自らの無知を自覚、あるいは、想定し仮に少しの知識があるにしても、なにも知らないまっさらな状態で一から学び、意識して全身で感じるようにするという姿勢である。
故人である、知の巨人、立花隆さんが著書で書いていたのだけれども、遺跡を歩いて巡るにあったては、予習はしないし、既得の知識を排するのだという。
その場で何時間でも、心ゆくままに時を過ごし、身体の全身、内なる精神を傾けて、遺跡の歴史に耳を澄ませ、感じるようにする。
先入観やプライドを排したこの体験的方法は、遺跡巡りだけでなく、美術館や博物館の鑑賞にも適用できる。私はそう感じた。それが、タブラ・ラーサ的鑑賞の意味するものではないか。

このタブラ・ラーサ的鑑賞の着想は、この以前の展覧会の記録を文章化した際に、すでに芽生えていたかもしれない。言語化の効果は大きい。

また、展覧会から話題は変わり、ワイアード創刊編集長のケヴィン・ケリーの話題で、ケリーがアリストテレスの風貌を彷彿とさせるという感想は、いまから思えば、ユーモラスで微笑ましかった。

アタラクシアという古代ギリシアで理想とされた心の状態が、アニメに登場する(何のアニメかは失念した)「植物のような心の状態」という表現に近いのではないか。そのような話題もあった。

東京国立博物館や上野一帯は、諸外国から来た方をたくさんみかけるので、ちょっと世界を感じさせる、国際的空間であるというような新鮮な感じを受けた。ミュージアムは日本と世界を繋ぐ窓であり、人類共通・人類普遍のフォーラムであるということを実感した。博物館のコレクションは日本の至宝であるとともに、人類の至宝であると感じる。充実した1日となった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?