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知恵の泉、図書館を自由に綴る。(読書日記)

図書館。この大きな空間はいうまでもなく、静かな空間である。この空間が私は好きだ。大きな図書館で過ごすと、日常の混沌から遊離した世界というものの姿が、整然と自分の眼前に現れてくる。それは、歴史的時間軸と宇宙的時間軸をもった世界像の立体キューブである。そのキューブは、書物が集積されたことによって、鍵穴がいくつも連結・複合し、ページを開くという行為によって、回転し、動き始める。人類が悠久の年月をかけて構築した世界知に鍵を差し込むという行為・その行為の総体は、図書館で過ごすという静謐な体験そのものなのである。

図書館は、人類の経験知と集積され、整理された悠久の歴史を体感するのにうってつけの場所である。日常の困りごとに限らず、人生に迷ったら、私はまず図書館と書店に行く。そこに行けば、有史以来蓄積されてきた知恵の泉にアクセスできるからだ。

王侯貴族のような位が高い階級の人間しか図書館を利用できない時代がかつてあった。博学博識の大哲学者ライプニッツは良書がそろい、利用者の便宜にかなった現代にも通ずる図書館像を構想していた。

今日では、図書館は知恵の泉の社会的実例として機能しているように思える。
人類最初の知恵の泉は高齢者である。高齢者がその知恵や技能を後世に継承できるようになったことで、知恵のリレー、すなわち文化の発展と継承が可能になった。文明の黎明期には、どの共同体にも、その知恵を仰がれる高齢の人間がいたのかもしれない。

人類は、自らの経験や文化を、効果的に蓄積し、継承できるような記憶装置を発明した。それが書物である。書物は集積し続け、図書館を必要とするようになった。図書館は人類の集合的経験知を効果的に継承し、人類の全体的記憶を保存するための館であるように思える。

図書館は人類の創造的イノベーションにどれだけの恩恵をもたらしただろうか。
図書館と人類社会の進歩はどうリンクし合うのだろうか。

この二つの問いは私にとって探求心を誘う問いである。

図書館は学校に居場所がない子どもたちの助けとなるだろうか。
かつての私は学校に行かない日はよく図書館にいたものだ。週に2日ほどしか学校に行っていない時期には、図書館が私の居場所であった。

学校への復帰(クラスへは戻らないが)を模索していた時期に図書館によく通っていたことがいまの私にとって糧となっているだろうか。おそらくなっていると思う。

あの頃の私は読書の仕方がまだかなり未熟だった。身体がまだ本に慣れていなかったのだ。そして、児童書から本格的なノンフィクションなどの大人を対象とした書物への過渡期にあったのだろう。

最初は読むのが苦しく、読書が思うように出来なかった。読むのがつらかったのだ。
だけれど、読み続けるうちにやがて読書に順応してきた。おそらく、読書に慣れたのだろう。つまり、脳の配線が徐々に変化していったということだと推測する。

だから、図書館という存在は人間形成の足がかりとなる場所と見なすこともできる。読書という自己の知性を開発し、教養を養うための助けとなるところである。つまり、必ずしも読破することを要せず、書物と読書に精神と身体を慣らすための場所とも私は捉える。

図書館は読書に慣れ、書物にふれることができるところ。そう定義することもできる。

図書館にいるということ自体がその人が何かを探しているということの証である。その探しものは、いわば探求である。本を探しているとは限らない。本を読むことによって新たな自分や未知の世界を発見しようとしているのだろう。


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