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日本のへそからぶらりたび 海士散歩(あまさんぽ) 崎地区編

海士町にせっかくきたからこそ、やりたいことをやろうと思った。
それは海士町の各地区を散歩すること。

各地区散歩して地区ごとに散歩紀行としてまとめたら楽しそうやなと思ったので海士町を散歩すること、「あまさんぽ」としてnoteで紹介していく。


今回は海士町の南端・崎という地区の散策記をお届けしたい。


海士町・崎地区について

海士町の最南端にある地区。
昭和43年までは隠岐汽船の発着所があったといわれています。

現在では梅やみかんの栽培に力を入れている。

海士町・崎地区散策ルート

ルートを決めるにあたって
島根県の健康ウォーキングマップの隠岐圏域・隠岐郡海士町崎コースを参考にさせていただいた。


中良公園


渡辺家は源融を始祖とし評価の高い家柄。
鎌倉時代から代々毛利家の重臣として仕えてきた渡辺家だった。

戦国時代に毛利元就が毛利家を相続した際に後継者争う戦い・長見山の戦いを起こし、生き延びた渡辺美作守亮が尼子の重鎮亀井秀綱を頼って隠岐島前に渡った。

渡辺家は屋号を中良と称し、崎渡辺家の初代に。
崎に味噌樽と称し、軍資金の入った樽を数多く荷上げし、安永年間(1764年〜1780年)には島前の大半を収める権力者になったといわれてる。

現在は海士町管理のもと中良公園になっていて憩いのスポットになっている。

名馬・寿号の墓


明治38年(1905年)日露戦争でロシアが降伏した後、日本軍を率いた乃木希典大将とロシアのステッセル将軍が話し合いをした際に、ステッセル将軍が日本に送ったアラビア産の馬・寿号の墓。

寿号という名前は日本軍・乃木大将がステッセル将軍の頭文字から名付けたといわれている。

日露戦争後は東京・赤坂の自宅で飼っていたとのこと。
体格が良く爆音に驚かない「寿号」に子供を産ませようと鳥取に移動させた。80頭も生まれたあと、高齢になった「寿号」は1915年に穏やかに暮らせる海士町崎地区に移動。
崎地区の住民からは「寿号さん」と親しまれていたそう。


名馬・寿号の墓

大正8年(1919年) 23歳(人間で言うと92歳)の天寿を全うした。

こんなにリスペクトされている馬さんはただただすごいなと驚きを隠せなかった。名前もカッコ良すぎる。よう長生きしたなあと感心しておりました。寿号さんにとって海士町はどんな地域だったのだろうか。
きっと住みやすかったんだろうな。


後鳥羽上皇腰掛けの石

腰掛けの石への看板
腰掛けの石🪨

後鳥羽上皇が海士町の崎地区にやってきた際に、休憩で腰をかけた石。

承久の乱に負けて島流しにあったとはいえ海士町では大切に扱われたんだろうな。



高校日本史では知り得なかった名所を見て新鮮な気持ちになった。

後鳥羽上皇 着船の地

後鳥羽上皇が着船した崎の風景

後鳥羽上皇が隠岐で初めて辿りついた場所が海士町・崎地区。
船が出雲国大浜湊(現在の美保関)を出発後、隠岐に向かったが
島近くになったとき波風が荒くなったそう。その際に後鳥羽上皇は

我こそは新島守よ隠岐の海の 荒き波風心して吹け

と歌を詠んだそう。



三穂神社

後鳥羽上皇が1泊した神社。
崎地区の民家に宿泊を求めたが断られたので三穂神社に泊まったそう。

後鳥羽上皇が泊まった跡
拝殿
本殿

三穂神社で

命あればかやがのきばの月もみつ 知らぬは人の行くすえの空

と歌を詠んだといわれている。


海士町・崎地区を散策してみて


海士町の全地区を散歩し尽くす目標を立てて、まずは崎地区を散歩してみた。

ゆったりとのんびりと歩いたので1時間ほどかかったが、昔ながらの看板、道路沿いに咲いているシャクの花、サンジャクバーベナなどを見てカメラのシャッターを構えずにはいられなかった。

崎地区の歴史を調べてみると後鳥羽上皇が海士町に辿り着いた軌跡、中良公園から戦国時代のことに繋がったり、探求まちあるきを堪能できたので豊かな時間を過ごせたと思う。

崎地区には崎だんじりという行事もあるので祭り好きとしてはしっかりと目に焼き付けたいと思う。


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