ある日の息子の日記に、思わずキュンとした話。
小学生の息子は、週末に日記の宿題が出る。
私はあんまり日記を見ないのだけれど、今回はたまたま、書いているときにのぞき込んだ。
「何書いてるの?」
「こうえん、いったこと」
見てみると「まず○○をしました。次に○○をしました。それから○○がありました。たのしかったです」という風に、事実の羅列をしていた。
なんというか、タイムスケジュール並だ。何時何分何があり、何時何分何がありました、その繰り返し。
「・・・。もうちょっと、読む人のことを考えて書いたら?」
「どうして?」
「どんな風に、何があったとか」
「かいてるよ」
息子は、さも当然のように、連ねた事実のことを指で示す。
「うーん。もうちょっと具体的にというか。うーん違うな。『たとえ』ってわかる?『まるで○○のようだ』ってやつ」
「うん」
「こことか、その『たとえ』を入れた方がわかりやすいんじゃないかな。あと気持ちかな。最後に『たのしかったです』ってあるけど、途中でどう感じたとか、あった方がいいと思うよ」
「そうかぁー。どんなのがいいかなぁ」
息子は『たとえ』を入れるという、新たな切り口に初めて気づいたようだった。そして「まるで○○、とかどうかな」「じゃあ、○○は?」などと、思いついたたとえを言葉にしてきた。
私は「うんうん。そんな感じ」「おっ、いいねー」と適当に相づちを打って「書けたら後で見せてね」と部屋を去った。
しばらくして、息子がにこにこしながら「できた!」と見せに来た。
その一部がこれである。
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○月○日
きょうは、おとうさんと、いもうとと、こうえんにいきました。
こうえんでは、おとうさんとぼくは、サッカーをして、いもうとはちかくで、花をつんでいました。
おとうさんのボールは、はやくて、ぼくはかてません。
とちゅう、きゅうけいして、ぼくがバッタをつかまえているとき、いもうとが「貝がら。」といって、貝がらを見せてくれました。
それは、まるでアリの白いボートのようでした。
キラキラしていて、ぼくは、とてもきれいだなと思いました。
・・・
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・・・
・・・ええやん・・・(アリの白いボートなんて表現、どうやって思いついたんや・・・)
「どう?」
「いいと思う」
「やった」
息子はぴょんぴょん飛び跳ねた。
こんな何気ない、貝を見つけて見せてくれたというエピソードでも、息子の目にはこう見えたのか。
お天気の日に妹が駆け寄ってきて、その手のひらを兄がのぞき込む、そんな二人の眩しさ。
そしてバックには、父親がいて。
想像したら、なんだかとても・・・キュン、とした。
「さっきの日記と全然違うね。いいと思う」
そう言って、日記を返しながら。
こうやって、日記を見て、反応を伝えるなんてことも。
一緒に公園に行くことも。行った話を聞くことも。
きっと、あとほんの数年。中学高校になればなくなるだろう。
貝殻みたいにキラキラした日常は、そのすべてが、かけがえのない一瞬なのだ。
「日記、また見せてね。お母さんも読みたい」
「いいよー」
二つ返事でOKしてくれる無邪気さ。
これも今だけなんだし、ちゃんと宿題もみてあげよう。
私も小さな変化に、周りの景色に、新鮮な目で感動できる心を持ちたいな。
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