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駄本はいかに処分すべきか

かつて学者渡世に身をやつしていたこともあって、本を買うことが食料品や各種消耗品を買うのと同等の行為となってしまっている。そのため、自室には大量の本があふれ返っていて、ただでさえ狭い賃貸物件に住んでいるというのに、年々狭まる一方の居住スペースをどうするかでいつも頭を悩ませている。中でも最も頭が痛むのは、箸にも棒にもかからぬ駄本をどう処分すべきかという問題である。

もちろん、古書店にまとめて売却するというのが一番簡単かつ実利にもつながる処分方法であろう。だが、昨今では古書市場でも本がダブついているようで、よほどのものでもない限りあまり大した額にはならないし、引き取っていただけないことすらよくある。「よほどのもの」と称し得るものは自慢ではないがわたしのところにもそれなりにあって、そうしたものはどんなに困窮しようと絶対に手放す気にはならないものだから(ついでに言えば、うちにある「よほどのもの」の大半はチェコ語で書かれた本なので、日本国内にある古書店が相手だと二束三文扱いになることは目に見えている)、古書店に駄本を売るというオプションは昨今においては採りたくても採れないのだ。

次に考えられるのが、友人知人に本を分けるという方法であろう。だが、こちらが「駄本」と見做したものを大事な人たちに押し付けるという行為は、倫理的に許されるものではなかろう。自分にとってゴミのようなものを素敵な贈り物ですと言って譲渡する行為は、どう考えても人の道に反しているからだ。これまで周囲に多大なる迷惑を色々とかけて来たからこそ、余生を過ごすに際しては聖書で説かれている「黄金律」を今まで以上に大事にしてゆきたいと思っている。

こうして最後に辿り着くのが、ゴミの日にゴミとして処分するという解決策である。

よほど例外的なものでもない限り、本は燃えるものであろう。だからこそ、可燃物の日に出すというのが一番簡単かもしれない。だが、わたしは、「本を焼く者はいずれ人を焼くことになる」というハイネの言葉を大事に思っているからこそ、基本的には本を可燃ゴミとして捨てるべきではないと思っている。だからこそ、駄本を処分する際には、資源ゴミの日に出すのが一番無難であろう。

ただし、駄本は駄本と言っても、人を差別行為に煽動したり人の心身を傷付けたり誤った知識を拡散したりすることを目的として著された「ヘイト本」や「トンデモ本」については、そのままの形で資源ゴミとして処分すべきではない。ゴミ捨て場で何も知らない人がこうした本を偶然発見して持ち帰って読んだ末に、間違った知識や考えを吸収するのみならず、周囲の人たちにもこの種の著作から得た謬見や短見を吹聴してしまう可能性が生じないとは言えなかろう。「ヘイト本」や「トンデモ本」を著し、流通させることの危険性は、人の心身を著しく傷付けたり間違った知識を広めてしまうことだけではなく、社会を破壊することにもつながってしまいかねないところにこそある。この種の本は、人文学や社会科学の領域において専門的な知的訓練を受けた研究者や類似の知的訓練を経験した著述家が細心の注意を払った上で扱うべき「紙の毒物」なのであって、「言論の自由」の範疇に収まるものでは断じてない(この問題については、『NoHaTeTV』この動画を参照されたし)。むしろ、社会における「寛容の精神」、ひいては「言論の自由」を破壊することにつながりかねない有害物質なのだ。だからこそ、差別煽動を目的にした紙束や誤った知識を全篇にわたって吹聴した紙束を処分するに当たっては、資源ゴミとして処分したいのであれば、前もって裁断するなりして頁をバラバラにした上で他の新聞紙や雑誌類に紛れ込ませてしまうべきであろう。こうした手間暇をかけられないのであれば、資源ゴミとして出すのは諦めて可燃ゴミとして出すしかなかろう。いずれにせよ、この種の紙束は一般の読者の目には「書物」として絶対に触れさせるべきものではない。(この種の「本」を僭称した有害な紙束など、極右や宗教右派を専門とする研究者や著述家でもない限り、そもそも買うべき代物ではないのだが……。)

わたしは、ハイネのあの言葉が図らずもナチの蛮行の予言になってしまったことを忘れたくはない。だからこそ、民主主義や寛容の精神を脅かす不寛容を説く者や刊行物に対しては、両者を守るためにもこれからも徹底して不寛容な態度を取り続けようと思う。ささやかながらも、こうしたことを行うだけでも「戦う民主主義」を実践することにつながってゆこう。


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