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【掌編】白い隙間

 いつものように家で夫の哲志と晩御飯を食べていると、その日はたまたま会話の流れから私たちの出会いの時の話になった。
「そういえばさ、初めて会ったとき哲志お金持ってなかったよね」
「あのときは会社までの定期券だけしか持ってなかったからね」
「でも、あの駅は会社の最寄り駅じゃなくない?」
「うん、そう」と哲志はさも当然ことのようにあっけらかんと答えた。
 私が夫の哲志と初めて会ったのは、とある駅の改札横の駅員室だった。私が乗り越し清算をするために窓口へ行くと、先に駅員と対応してたのが哲志だった。「どうしてあの駅にいたの?」と私は不思議に思って夫に尋ねる。
「なんというか、まぁ、はち切れちゃったんだ」
 哲志は言葉を選びながら言いづらそうに答える。
「はち切れた?」
「うん。あの頃は毎日が職場と自宅の行き帰りの繰り返しでさ、休日は家にいても疲労で横になっていることしかできなかったんだ。そんな日々が積み重なって膨らんで、あの日終電間際まで残業していたときにそれが突然破裂したんだよね。それからはよく覚えてないんだけど荷物も職場に置いたきりで外に出っちゃってたみたい」
「……そうなんだ」
「ポケットに定期入れだけは入ってたから、それで駅の改札を抜けて、何も考えずに、というかまともに頭も働いてなかったからホームに一番初めにやって来た電車に飛び乗って、気付いたらあの駅にいたんだ」
 これまで話されなかった夫の過去に私は困惑して相槌を打てず黙ってしまう。
「自分の認識できる世界が徐々に狭まって苦しくなってたから多分それを崩したかったんだと思う。文字の黒い部分だけじゃなくて白い部分も見たくなったというかさ。今なら黒と白で形が成り立っているって分かるけど、当時はそんなことすら分かる状況じゃなかったよ」
「そっか。あの会社辞めて正解だったね」
「うん、本当にそう思うよ。狭くて苦しい中にいると、その外にも世界が広がっていることを知っているのに見えなくなるんだよね」
 哲志は感慨深げにそう言ってしばらく黙り込んだ後、自分の気持ちと食卓の空気を切り替えるように私を見て尋ねる。
「美沙希はどうしてあの駅にいたの? 当時住んでた所じゃないよね」
「哲志の話の後だとかなり恥ずかしいんだけどさ、単純に終点まで寝過ごしただけ」と私はやや赤面しながら答えた。
「そうだったんだ。でも美沙希があの駅まで寝過ごしてくれて本当に助かったよー」
「お金が無くて駅員と揉める哲志を見てるとさ、もちろん最初は早くしてよって思ってたけど段々ほっとけなくなって」
「後ろから私お金貸しますよって聞こえたときは驚いたよ。申し訳ないのと同時に美沙希に電車代と家までのタクシー代を返すまでは生きていなきゃって思ったよ」
「じゃあ私たちはいるはずのない駅で出会った二人だ」
「分からないもんだね」と哲志は少し微笑んでから、食べ終わった食器を片付けるために立ち上がった。
 私も自分の食べ終えた様々な大きさの食器を積み重ねながら、生活の白い隙間で出会った哲志とならば、この先も共に支え合って暮らしていけると感じていた。

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