圧倒的被害者、母の回 ~30歳になるまでに解きたい呪い~
圧倒的被害者、母
父は暴力をふるう人、母は暴力をうける人。
これだけなら母は圧倒的被害者だろう。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。
母は確かに父からのDVに関しては被害者であったけど、それと同時に加害者でもあった。
それは私に対する《心理的虐待》だ。
母が父に殴られたのを見てから増えた八つ当たり。母は私を怒ることでストレスを発散していたのかもしれないし、私が嫌いだったのかもしれない。
これがどっちでも今の私にはどっちでもいい。
母は祖母に嫌われる次男を溺愛していた。
私は母にはっきりと言われたことがある。
「私は次男が特別、あんたは父さんにでも可愛がってもらって」
まぁ、絶対に子どもに言うことではないよ母さん。
そうは言ってもその時の母の剣幕は凄くて、怒り狂った般若のようにも見えたし憎しみで溢れていたのはよくわかった。
事の経緯は忘れてしまったが、あの大きな家の一階にあった玄関近くのリビングに行けるダークブラウンの木の扉の前で言われた。
やけに扉のドアノブを冷たく感じたのはその一言で私の温度が下がったからなのかもしれない。
しかしこの言葉の意味をわかることもしっかり覚えて生活することも、やっぱり当時の私にはなかった。
子どもなんでね、本当に。毎日が楽しくてそんなこと忘れちゃうんですよ。
母がどんなに私に八つ当たりしようとも、次男を特別に溺愛しようとも、私が幼すぎて上手くその差を感じ取れなかった。
そんな私にもその差をはっきりと感じる出来事があった。
近所の同じクラスの子にずっといじめられていた私を次男が助けてくれたときだった。
翌日学校は大騒ぎだった。
次男が私を虐めるそいつに徹底的にやり返したことでそのいじめっ子の親が「次男にやられた」と連絡したのだ。
そもそも私がいじめられたことが原因なのに、学校で怒られた次男は私を責めなかった。
そいつは学校内で何かをしてくることはなかったが、学校から帰るときいつも私を虐めてきた。
ランドセルにタックルをして私を転ばせたり、ランドセルを掴んで振り回したり、髪の毛を引っ張ってきたり。
私は本当になんでこいつがこんなことをしてくるかわからなかった。
教室にいるときは関わってこないのに学校の外に一歩出たら暴力で関わってくるのだ。
私は逃れたくて必死に走って帰るけどそいつはいつも追いかけ回してきて、私を捕まえてはそんなことをずっとしてきた。
やっぱりこれも誰にも言えなかった。
長男は早めの反抗期だったし父は長男につきっきりだし、姉は中学生だし母は何よりトラブルが嫌いだったし。
次男がどうして私を助けてくれたか覚えていない。
偶然そこに現れて、そいつのランドセルを掴んでぶっ飛ばしてくれた。
そいつが私にしたことを同じようにしさらにそれを越えた制裁をした。
まぁ、年子とはいえ年上なので学校は大騒ぎした。
この時のことを次男に聞けたことはない。
怒られたのかどうかも聞けなかったし、私がそいつにいじめられていたことをちゃんと伝えたのかも私は聞けなかった。
この事件を父は怒らなかった。
次男が私を助けたことを褒めて私にも、何かあったら言うようにと言うだけで済んだのだ。
それで丸く収まった、ようにみえた。
まさに、そうは問屋が卸さねえ!がここに開幕する。
しかし母は次男がトラブルのもとになったことで怒り狂い、私を徹底的に怒った。
虐められていたのは私なのに、母は私を連れてそいつの家に菓子折りを持って謝罪に向かったのだ。
いじめられた私を連れて、いじめてきたそいつの家に、だ。
そして私に謝罪をさせた。まじで意味がわからん。
相手の親も自分の息子が私にしたことを聞いたのかもわからないけど謝ってきたが、なんでそれに合わせて私が謝らないといけないのか。
母親たちの井戸端会議が繰り広げられ、私は30分近くそこに立ち尽くすだけ。
まあ飽きるわ、小学一年生だし。
フラフラしていたら、帰り道そのことを追加で怒られた。
「なんでじっとできないの!? フラフラして、みっともない! そもそもあんたのせいで次男が」
私はみっともなかったのだろうか?
いじめられて誰にもそれを言えなくて偶然見た次男が助けてくれた。
それを謝罪する必要がない相手の家にまで出向き謝らされて、いじめられた娘の母親といじめた息子の母親の井戸端会議を待てない私はみっともないのだろうか?
私にはわからなかった。
母は次男がトラブルを起こしたことがとてもつらかったようだった。
私がいじめられていたことなど母にとってはどうでもよく、次男が学校で怒られたことのほうが世界を揺るがしていたようだった。
さすがにこれは堪えた。
いじめられたことを心配もされずなぜか謝らされて、母が気にするのは次男と体裁だけで。
ほんの1ミリでいいから気にかけてほしい
私の望みはそんな子どもらしい当たり前の接し方。
そんな私が低学年のときはまだ土曜日も学校があって、授業参観や行事類は土曜日によく行われていた。
親が参加して一緒に作品を完成させる、みたいな授業参観の内容で母は来るものだと信じていた。
内容も告知されていたし、私もちゃんと知らせた。
母は仕事が忙しかったし私も小学生ながらにそれを理解していたから、母が不在の授業参観を気にしていなかったしそういう日もあると割り切れていた。
ただ、その授業参観だけは違った。
「あーこれね、次男のとき行ったわー」
私からすればこの言葉の意味は『次男で観た内容だから興味はない』と聞こえたのだ。
当日本当に母は来なくて、その時間は隣の席の子のお母さんが気を遣って話しかけてくれたり作品を見てくれた。
そのお母さんには凄く感謝しているが、正直その優しさがたまらなく寂しくさせた。泣きたくなった。
作った船は誰よりも早く綺麗に沈んだ。
沈んだ船を持った私のもとに母が到着した。
母は長男か次男の授業参観に行った後だった。
何も言えなかった。
本当は寂しかったけどそれを口にしてはいけないとわかっていたし、過ぎた時間が戻らないこともわかっていた。
母が私の望む時間に1時間きっちりと教室にいてくれる授業参観はほとんどなかった。長男、次男、私と見て回るところが多いからそれは仕方なかったし兄弟のいる家庭はどこも授業参観は慌ただしく理解しているつもりだった。
ただ自分に1時間使ってほしいという子どもらしい我儘が怒られると思い、些細な母と子の交流のなかで我儘さえ口にできない私はそもそも母との親子関係がおかしかったと思う。
でもそんな関係が当然で生きていたせいでなかなかおかしい関係と感じることが出来ず、次男のようにとは言わずとも母は自分のことをちゃんと好きでいてくれてると思っていた。
やっぱり、そうは問屋が卸さねえ!が開幕する。
それが最初の「あんたは父さんに可愛がってもらって」だ。
同じように好きでいてもらえなくても、少しくらいは好きでいてもらえてると信じていた私にこの一言はこれまたたまらなかった。
そして私は母に好かれたくて『良い子』でいようとするのだ。
次男との差を埋めたくて間違った努力を始める。
これが原因でどんどん人生は泥沼化していく……。
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