理系のための国語(のメモ)

をテーマとした記事を作成中です。

執筆の際のメモとして、色々なところに色々なメモを残してしまい、自分の中でとっ散らかって整理が付かなくなってしまったので、一旦メモのそれぞれを個別のテーマとして小出しにし、一つの記事として公開しようと思いました。

それぞれは独立したメモにすぎず、記事全体としてはまとまりのないものになっています。一つの記事内の出来事としてとらえて、なにか矛盾が生じていたとしても、この記事においては「それはそう」としか言えないので悪しからず。


--

【科学と哲学】

教科としての国語は義務教育に組み込まれていますが、一般に国語は文系を代表する科目とみなされており、理系としてはあまり関係のない教科のような認識を持つ方は多いのではないかと思います。しかし実際のところ、理系と分類される学問を執り行ううえで、ある程度の国語能力は必要です。

私は最近までこれを軽視しており、漠然としたもやもやを抱えながら科学を執り行って生きてきましたが、科学哲学を学んだことで、少なくとも科学的な立場からは明確な説明を行うことができるようになりました。


--

論理学とは哲学の一分野であるため、つまるところ科学は哲学の一側面と言えますね。ですが、この認識は今日の我々からしたら受け入れがたいような気がします。哲学と言われると、「人生とは何か」といった問いに代表されるような、漠然としていて明確な答えを出せないものについて追及する学問で、少なくとも科学とは対極にあるようなものというイメージを持つ方の方が多いのではと思います。

哲学と科学は違う性質を持つような認識を持ちますが、ではその違いは何なのでしょうか。

ここで科学は、ある前提というのをあらかじめ定め、この範囲において絶対的に成り立つとすることで、科学と哲学を明確に切り分けるのです。

ここで忘れないでほしいことは、科学はある範囲において成り立つということ、すなわち、この範囲より外側については一切説明を与えないということです。ここがある科学の分野において、これが立場になります。


--

この世界、自然は、あなたが知覚している時点で存在します。存在を否定するのは、あなた自身の体験(観測結果)に矛盾するため、論理的に不可能です。仮説を理論として昇格させるには、仮説に基づいた現象を、現実で実証させなくてはなりません。ところで自然現象を説明する理論は、自然の存在を前提としていますが、自然の存在については、あなたの知覚を根拠としています。では、はたしてあなたは存在するのでしょうか。また、あなたは自身の存在をどのように実証すればよいでしょうか。

存在はあなた自身の知覚が実証しています。あなた自身の存在が正しいかどうかは実証の使用がありません。そこにあるからあるという外ならなくなるのです。観測者自身を疑うことになります。


--

論理学では、前提に対して導き出される結論が成り立つとき、「妥当である」といいます。また、前提が真であるような妥当な論証を健全であるといいます。さて、自然を研究する科学は、自然というものを前提としているわけですが、そもそも自然の存在は真と言っていいのでしょうか?

自然は存在します。私やあなた自身が、それを認識している時点で、存在は確実です。あなたが自然を知覚しているということは、観測結果としての根拠として成り立ちます。

しかし、それを成り立たせるためには観測を行う私自身の存在が真であることを示さなくてはなりません。

不確実のもと執り行われる科学が真であると言い切れません。


--

この世界に自然は存在し、あなたはそれをもっともらしく、正しいものと認識していますが、ではあなた自身の正しさはどのように説明すれば良いでしょうか。つまるところ、あなたは本当に存在するのでしょうか?あなたは何で、何故そこにいるのでしょうか。貴方の見ている世界が正しいことを、どうしたら実証出来るでしょうか。

存在を実証出来ないが、否定は出来ない。少なくとも確実に存在している事はわかる。少なくとも言えることは、この世界において、もっとも確かな存在はあなた自身です。しかしながら存在を実証出来ない以上は、確実に存在しているように見えても、不確かさは限りなくそこに存在します。

これについて実証する事は難しそうです。私はあなたを認識しており、私の立場からはあなたはいると結論づけることが出来ますが、私は私自身の存在を実証できません。何をもって存在すると言っていいのか、不確実な私の証言を根拠とは出来ませんが、しかし私が見るこの世界は、私の目の前にはっきりと存在しています。

科学を始めるうえでは、まず初めにその仮定を受け入れるしかありません。

私自身の存在がある、この仮定を大前提として受け入れたうえで科学、それ以前の科学を形作るこの世界は成り立っています。


--

【理論】

誤差の範囲内において説明する時の根拠に使える。論理的に道すじ立てて説明する際、別に科学理論を根拠(前提)にする事は強制されていませんが、ただ少なくとも科学の立場とは異なります、と言うだけです。ある前提(科学の場合データの誤差)の範囲内で存在可能。真実かは置いておいて、説明自体は存在しています。貴方がそれを暫定的な真実として認めるかどうかは別問題。あなたの存在の元科学理論は存在してはいる。現実を疑うことは大事ですが、ただ闇雲に否定を行うだけでは、少なくとも今回の場合においては科学的とはいえません。

例えばこの世界には神様と呼ばれる絶対的な存在があって、神様が七日間で世界を作ったと説明するのは、至極もっともです。この主張はある立場からは確実に正しく答えとして機能しますが、一方で科学の立場からはこの説明は誤りです。説明や議論を行ううえで、何が正しいかというのは次に気にすることであって、まずはどの立場で議論するかということを明確にしておかないと、話がかみ合わなくなってしまい、建設的な議論を始めることが出来なくなってしまいます。


--

実際、理論に基づく予測は非常に便利です。

しかし、理論は説明を成り立たせるための手段でしかなく、理論に基づく予測については、結果を保証出来ません。もしあなたが理論に基づいて実験を行い、得られた結果が予測と異なっていたとしたら、それは理論が誤りなのではなく、何か見落としている要素があるかもしれないという事です。

科学の範囲で説明できないことが起こったときや、科学に基づいた予測と結果が異なっていたときについて、科学は説明を与えません。真実がそれを上回ることがあったとしても、それは別の話です。少なくとも科学は、科学の上では絶対です。

理論は観測結果、つまりデータを根拠として正しさを保証しています。現状、観測を行う際には誤差は付き物で、それをもとに構築された理論は、誤差以上の範囲については正しさを保証出来ません。この誤差の部分に理論としての不確かさは存在すると言えます。なので、もしもあなたが科学的な立場からの説明を行う時に理論を参照したのであれば、その誤差が示す不確かさについては認めたということになります。

さて将来、誤差についての問題を克服し、完璧な観測結果を得られるようになり、またそれを完璧に説明出来る理論が誕生したとします。

そのとき、その理論は真実を説明する上で絶対的根拠とする事は出来るのでしょうか。

実は、これについては、理論という性質の上では分からないと言うほか無いのです。


--

生物とは何か、何をもって生物と言えるか、これを追求するのは哲学の領域に突入することを意味します。

生物学においては生物の定義は次のように決めています。

~~

なので、ウイルスは生物では無いと聞いたことがある方は多いかもしれませんが、それはこのためです。生物学的には、ウイルスは単に粒子として分類されます。しかしながら遺伝情報を持ち、ある場面では生物と似たような振る舞いをするため、ウイルスを研究する事はとても有意義で、役に立ちます。

科学において、現実に存在するすべての事柄について、厳密な定義を定めることはあまり意味がありません。そこにあるものに関して、何に着目して研究するか、これが大事なのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?