一風変わった自己紹介
序文にかえて
昔話になりますが、以下に述べる事実に一切脚色などないことをお断りしておきます。
私は幼い頃から科学そして「謎・不思議」に関心があり、小学生の時、学研から出ていた「世界のなぞ・世界のふしぎ」を読み、大変心が躍ったことをおぼえています。
科学への興味はもっぱら生物――とくに昆虫類に関することで、中学生以降は学校外のクラブに友人に誘われて入り、はじめのうちは蝶類の熱心なマニアとして捕虫網を振っていましたが、その後自然保護の思想に傾倒し、大学では「自然保護研究会」で活動しました。
また、「謎・不思議」に関しては、現代科学で説明のつかない奇現象や幽霊、UFO、UMA、超能力に興味を抱いており、退屈なものが多い大学の講義中、心理学と論理学だけは熱心に聞いていました。
また、特筆すべきはパチンコ・スロットなどに嵌ってしまうという「ギャンブル依存症」になってしまったということで、それは3年半前まで続いていました。自助グループにもつながりました。
老境に近くなった現在では、定職ではありませんが、習作として小説を書いたりしています。
これまで、〝ムー〟を含む文献などでさまざまな神秘に触れ、小説の材料などに活用させていただきましたが、最大の謎はそれら外界にあるのではなく「自分自身」であることに気づきました。まさにチルチルミチルの青い鳥です。
File1 一度目のはっきりした体験
1983年、卒業した高校での教育実習に行ったときのこと……K君と7年ぶりぐらいで再会した。彼もまた教育実習生だった。私はハッキリ言って彼と会うとは思っていなかったし、また会いたいとも思わなかった。なぜなら彼は高校時代、私のことを茶化していじめて楽しんでいたからだ。
度重なるイジメに私は堪忍袋の緒が何度も切れそうになった。そして卒業時に渡されたアルバムの彼の顔写真に、ついに私はある日タバコの燃える穂先を押しつけて「これで復讐だ」などといい気になっていた。そのときの私の心理状態はちょっと高揚しており、躁鬱でいうと〝躁〟の状態であった。
しかし、時を経た彼の雰囲気は変化していた。高校時代のとげとげしさが影をひそめ、『円く』なっていたのである。仏教系の大学に通っていたこともあろう。だが、一番驚かされたのは通う大学のある京都の橋の上で、明らかにその筋と思われる男から「タバコの火を頬に押しつけられた」と彼自身が私に告白したことである。私はそのとき、言葉を失った。
このことをいったいどのように説明するといいのだろう。時系列でいうと、私が顔写真にタバコを押しつけたのは、実際の〝事件〟のたぶん前だと思われる。【呪い】なのであろうか。
File 2 かつてのできごと
私は、さる懸賞に応募するため、さる年の前半は「Mom(マム)」という小説にかかりっきりであった。内容は、ごく大ざっぱにいうと現代科学文明の批判である。〝SFホラー〟という形にした。
ところが、本当に恐ろしいのは小説の中身よりも、現実に、実際に起きたことである。
忘れもしない、5月6日と7日――物語も中盤を過ぎ、私はヤマ場をつくることにした。
それは悪役が超能力を用いてクルマの中の一家四人を焼死させる場面である。彼女(=悪役)はその後、たて続けに五人殺すのだ。その翌日に青森県弘前市で起こったことをご存知の方はいらっしゃるだろうか。
「武富士弘前支店放火事件」――直後の報道は伝えた。四人死亡、五人が重軽傷。私は悪役の女の子に過負荷の電気を一気に放電させ、車内でガソリンに引火させたのである。弘前の事件でも犯人は発火触媒にガソリンを用いていた。亡くなられた社員とそのご家族には心からのご冥福を申し上げたいが、私は犯人と一面識もないし、ましてや犯行を指示しているわけでもない。この不気味すぎるほどの一致は何を意味しているのか。
そして五月末、またしても〝事件〟は勃発した。
寝ようとしてウトウトしていたところ、バズンとすぐ近くから衝突音がして、窓から外をうかがうと、どうやらクルマが何かにぶつかったようであり、白煙があがっていてその後しばらくクラクションが鳴りやまなかった。
私は翌日現場に脚を運んだ。コンクリート製の電柱が建てられようとしていた。クルマは電柱にぶつかっていた。だからあの、きのうのもうもうとした煙はラジエーターから漏れた水蒸気だったのだ。
これもまた、私が小説で描いた一場面の再現であった。もっとも、現実と違うのはクルマが引火して爆発することと現場が下りのカーブであったことぐらいである。しかし、電柱にぶつかるという点では一致を見た。
私の知る限りでは、かなり昔、アメリカで軍事小説を書いたあるSF作家がいた。その内容は当時の機密である戦略防衛構想に酷似していたといわれる。作家は当局の手によって拘束されたが、スパイ容疑は「シロ」であり、無罪放免になったらしい。その作家は国家機密など知る由もなかったのである。韓国でも同様なことが起きている。
これらを現代科学で説明しようとしても、齟齬をきたすだけだろう。
File 3 さらに
7月8日・午後十時過ぎーー
仕事帰り、「自損事故」というコトバが頭にぼんやりと飛来し、坂道を自転車でエッチラオッチラ登っていた。「自損事故は標識とか自分のクルマがぶっこわれるだけだからまだいいさ。他人やひとのクルマにぶつけるより大事にならないから……」私はその後、あるコンビニにJリーグチームのチケット情報を確かめに行った。黒猫(ヤマト運輸ではない)が店の出入り口におり、店に入りたがる素振りを見せていた。そして、帰宅。
7月9日・午後四時半前ーー
ビデオを返却に行く。きのう通ったコンビニの近くで救急車、続いて消防車がけたたましいサイレン音とともに通りを右折してゆく。「……!?」
火事かと思った。しかし、その先に見えたのは、天地が逆にひっくり返った黒塗りのベンツ。すぐ傍らには無残にひしゃげたプラタナス。交通事故、しかも自損事故。――ドライバーは幸い無事でピンシャンしており、警官から事情聴取を受けていた。
無線で通報していたほかの警官の話によると、ベンツを運転していたのは「18歳・男性」であった。人だかりは時を追うごとに増えていったが、私は現場に二分とはおらず、近くのビデオ店に向かった。
「自損事故」が浮かんで、それについて考えていたまさにその道で事故は起きた。何たる偶然か、恐ろしい――ふつう多くの人はそう考えるだろう。
File 4 そのほか
私は前述のとおり幼い頃から自然に親しみ、それを愛し守ろうと心がけている。それが今、国内だけでなく地球全体の規模で自然環境が失われているのは大変悲しむべきことであり、かつ人間にとっても切実な問題になっている。
その原因は、科学技術の伸長と切っても切り離せず、経済の進展がそれを後押ししてきたのだといえるが、それらの根底に横たわるのは、人間に深く根差した〝欲〟以外の何物でもないと考える。
たとえば、以上の私にまつわるできごとを現行の科学で説明し、解明できるであろうか。単にことばで表現するなら、以下のようになるだろう
● 未来予知
● シンクロニシティ―(共時性)
● 現実化能力
こういったものに数式を当てはめて説明ができるか?
それは、いまのところ不可能であろう。
なぜなら現行の科学は、人間にもっぱら物質的利益・具体的利益をもたらすために発展してきたものであり、それで割り切れぬものを排除してしまうからである。
二〇世紀に入って特に崇められた、その物質万能・金銭至上主義で、世の中が現在どのようになっているかは皆さんご存知のとおりなので、いちいち書かない。
私はかつて、石油会社にタンカーの航路を指南したり、あのプリントゴッコを生み出させた霊能者と会ったことがある。
そのA先生はもう故人であるが、若い頃は変人として見られ、東北地方のとある山に篭もったりして修業を重ねたという。亡くなられる間際までインドに有名俳優と出かけたり、その信奉者は数多かった。先生の道場には祭壇がしつらえられ、荘厳な雰囲気さえ漂っていた。
その後しばらくして私はキリスト教会に繋がった。バプチスト派のそれである。そしてA先生のことを教会の牧師に告げた。返ってきた答えは「悪霊(あくれい)だよ」。
私のA先生に対する認識はその時一旦崩れたが、人には人数分のいろいろな評価があるものだと思った。
現在、私は教会に行かないクリスチャンである。行っていない教会ではすでに〝無所属〟扱いである。
神様に対して祈っていない。また、かつてはよく祈っていたものの、それが現実化したことはほとんどない。しかし、心の中に登場したり、意識の底から浮かび上がって来たり、書いたりしたものはたびたび現実化している。前述したように怖いものあらば、微笑ましく嬉しいものもある。
宗教は世界中、いたるところに存在している。中には対立し、憎み合い殺し合っているものさえある。誰もが「ああしたい、こうしたい」と想い願い、そして自らの信仰が正しく「まちがっているはずがない」と認識している。
『人間は結局、自分につごうのいいものを信じたがる』――名言である。誰だって幸せになりたい。
人間は、心理学的観点からいうと〝何かにすがって、落ち着きたい〟のではないか。世の中はとかく事件だ紛争だ戦争だなどと騒々しい。そしてこの国では、バラバラの価値観がさらにバラバラになっている。その中で重りの役割を果たすのが宗教ではないか。紙は風に飛ばされやすいが、一個石を置くことで、その場に留められる。この場合の紙とは自分の心である。
宗教の中には〝邪教〟も存在する。その信仰の入り口で退くか進むかは個々の予知力によるだろう。もちろん、退いた方がいいに決まってるが。
Final File
統計資料とか、数字とかがまったくなく、そういったものを添付できないのは悔しいけれど、人間は誰しも「先をあるていど読める」と思っている。ただ、その読み方が千差万別でアプローチのしかたも違うので〝運命〟も変わってくるのだろう。個別の未来とは、本質的に確定していない。しかし、この国の現状では「未来は何もかにもが薔薇色だ」と思っている人はごく少数派だろう。多種多様な人間の存在を度外視した「AIはすばらしい未来を創造する」という考えに私は賛同できない。むしろ、科学技術の独り歩きは暗く恐ろしい未来しか作らないだろう。
私は、自らに与えられえた力を自分のためのみならず、周囲にも使いたい。
以上をもって結論に代えさせていただく。