こじるりには「女」という以上に何の情報も魅力もない


愛の反対は憎しみではない。無関心だ。」マザー・テレサ


こじるりに全く魅力を感じない。TVに出ているということは、世間から一定の評価と魅力を感じられているということなのだろうが、僕はなんの興味も惹かれない。

僕も少しこじるりを好きになろうと努力してみた。しかし僕のどこのヒダにも引っかからない。僕が何かおかしいのかと悩んだこともあった。でも、なぜこじるり程度でこんなに悩まなきゃいけないのかとキレそうになったこともあった。

こじるり自体が、「女」という以上何も僕に主張してこないからということも考えられる。こじるりにつけられた「賢い」「元気」という情報も、なぜかなんの魅力もない。他の人間についている情報ならばとても興味を惹かれるのに。

僕は、こじるりのことを嫌いなのではない。もちろん好きなはずもない。無関心なのだと気がついた。そして、こじるりについて考えることをやめた。

そもそもこじるりについて考えることが不毛だったのだ。興味のない人間に対しては、もう何の考えも浮かばないという、人間の認識のシステムについて深く認識しただけなのである。

こじるりに関してはもう何も考えない。そこから自然と連想する。人気を得る、興味をひく、ということは、その人に何かしら興味を惹かれるレッテルや情報が必要になってくるということなのだ。この人のコメントは正確で間違ったことを言わない、と言うレッテルがあるからその人のことを信頼し、好きになるだけなのだ。

某グルメ王の渡部があそこまで失脚したのは、悪いことをしたから、と言うそんな単純なものではない。僕は全くそんな印象を持っていなかったけれど、「真面目」「勤勉」と言うレッテルと正反対のこと(多目的トイレ不倫)を行ったから、そのことに対して「好き」が「嫌い」に反転しただけのことである。

「嫌い」は「好き」の延長線上にあり、その境界線は曖昧で、不可分なのだ。

そうすると、僕らが誰か仲の良くなりたい人の知人Cから抜け出したいとき、その人の興味のある人間になっていく必要がある。

好きな人の好きな人になれないと言うジレンマは、そこで諦めがついたり解決されていくのではないだろうか。




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