ホラー短編 ③ 廃墟マニア
そう言えば、歯医者の予約をほったらかしてから半年も経ってしまったな、とアキラは口の中で溶けるチョコを転がしながら思った。バレンタインを過ぎ、30%オフで買った売れ残り、昔はひとつも貰うことなく終わるのが確定しているこの時期がわずらわしかったが、今はそれも感じなくなっていた。
感じる余裕など、とうに失せていた。
「心臓やぶりの坂だね」
「は? 冗談キツいぜ」
赤錆びたレンガ造りの小屋が立ち並ぶ坂。こんなところでへばっていたら先が思いやられる、とこぼすケンジ。きびきびとした彼の歩調になんとかついていくため、アキラは撮影用の三脚を杖代わりに傾斜の続く道を、息も絶え絶え登っていた。
「こんなもん秒だって。お前が足引っ張らなきゃ」
山々に囲まれた静かな地帯、昼間だというのに脇の国道を通る車は見当たらない。今日2件目の廃墟だ。午前中に探索した廃ホテルがいまいちだったことで、昼飯は後回し、求める撮れ高を追っていたこともあってか、ケンジの口調はいつにも増して棘があった。
「俺のやってることが公序良俗に反しているから芸術として認められない、ってほざいてた連中。いまごろ顔真っ赤だよ」
お前みたいにな、とケンジは脇に転がるドラム缶を触った手でアキラの頬を張った。何のことかわからないまま触られたその頬を拭いたアキラの指が赤くなっていた。
染料を産出していた工場跡地、人がいなくなってもその名残は消えないままだ。往時に使われていた赤い染料が一帯におびただしく染みついた「死の工場」。誰が名づけたかは不明だが、その手のマニアが喜び勇んで踏み入れそうなこの物件、工場に至るまでの斜面は徒歩の探索者には酷なものがあった。
力強く足を踏み鳴らしながら、ケンジは手元のスマホを眺めている。画面には、先日バズったネット記事が映る。暗がりに佇む彫像と、窓枠から糸を垂らすように降りそそぐ星々。それは、彼が撮影したリゾート跡地での一枚で、ふたご座の流星群を長時間露光によって捉えた、深夜の廃墟でしか生み出せない美しい星景写真として反響を呼んでいた。
リツイート数は昨日よりさらに伸び、3万に達した。海を越え、国外の閲覧者がアテンションを寄せているようだ。
「そもそも社会を見てみろよ、犯罪捜査の一線では元犯罪者の協力があって解決を見た事案が山ほどある。アイツらはそういったところは見て見ぬふりして、てめえらの近くでわかりやすく光っているものに対しては石を投げてくる。やつらが反応するたびにこちらが得をすることも理解できてねえ、ウジが金を運んできてくれるってのはお笑い種だよな」
そうやって、ケンジは不法侵入って実際、だめだよね、と批判的な意見を向ける人々とその間で揺れ動くアキラに強引な持論をふりかざしていた。
ため息だと気づかれないよう大きく息を吐く。フォロワー数5桁のケンジに対してアキラのアカウントは数百ぽっちだ。写真の撮り方を教えて欲しい、と無邪気にDMをしたきっかけで知り合った当時こそ差はなかったが、ケンジは瞬く間に界隈で名を馳せる存在となっていた。たしかに、Fearless-Kことケンジのクリエイターとしての腕は疑いのないものだった。自前のHPでのブログ投稿やDIYで作った写真集も好評を博すなど、活動は多岐にわたっており、成果を実らせたのは至極当然とも言える。
ナップザックを背負った二人の影が苔むした階段を通過する。
ずぶの素人だったアキラは彼と廃墟巡りをしながら普段目にすることのない空間に足を踏み入れ、自然と良い写真が撮れるようになってくるのを実感していた。オーバースペックかと思われたフルサイズの一眼レフに腕が追いついてきた矢先に、いくつかのプラットフォームから声をかけられたりもした。
—お前もフォロワー買っちゃえよ。
そんな野心家ケンジの助言で撮った魚眼レンズでの廃墟写真だった。報酬こそなかったものの、宣伝になるのであればこれ幸いと思い、アングラ界隈のメディアに譲り渡したことで自己肯定感も満たせた。
どんなアウトサイダーでも一定の需要はある。
ひとりでは到底、辿り着けなかった場所にケンジが導いてくれたのは事実だ。しかしいかなる分野でも先行者に後追いが勝ることはない。ケンジのようにうまくいくケースは稀だ。一度でもドーピングをしたアスリートは、のち身体を綺麗にしてもつけた筋肉や成功体験を糧に活躍できてしまう。そもそもグレーな界隈での活動、チート済みのインフルエンサーがもたらす金によって全国津々浦々を旅できているのだから逆らうにも逆らえない。
アキラは今やケンジとの主従関係から逃れられない立場にいた。
「前に進んでいる人間の足を引っ張っておいて、『逃げ』だとか、お定まりのフレーズを吐くヘイター、お前らが人生から逃げてんだよ」ケンジの叫び声が、ふたりの背丈をゆうに越えるシャッターを揺らした。
5mはありそうな、巨大なシャッターだ。
用意してきた軍手をアキラに渡すと、目で促した。
「うまく開かない。染料のせいかもね」
唇を歪めるケンジ。事前の調べで、このシャッターの奥に、未踏の退廃美が眠っていることを突き止めていた。この廃墟に潜入した人間はいくらかいるものの、皆このシャッターに閉ざされた倉庫室に入ることなく帰路についている。最新のドローンを飛ばし、剥げ落ちた天井の隙間からわずかに覗くお宝の姿を発見したからには突き止めずして退き下がれない。
裏面にこびりつく染料で巻き上げがうまくいかないのかもしれない。
「そろそろ教えてよ。一体この奥に何が……?」
貯水タンクの上で一羽のカラスが小首を傾げている。倉庫室に至る階段の外れにしゃがみ込むと、ケンジはふいに足元へカメラを向けだした。木片と砂利を被った洋書らしきものが開いている。
「これに添えるテキストは、っと」
砂漠に雪が降るように/この世に産まれ堕ち とうに/たまに物書き愚かに抗い邪魔をするなら領域展開/世間の垢にまみれる前に/個人のアカではみ出るもアリ/良識あるぜだがしかし/すべては他愛のない物語etc…(曰くclumsy)
「そういうの、いつ作ってるの?」
「横になっている時にふとアイディアが浮かんでくるんだよ。疲れていれば疲れているほどいい」と、接写しながらケンジが返す。「言葉はいつも暗闇から生まれる」
SNSで差異化を果たすためには独自性が必須。ただエッジを効かせた写真だけでも、それっぽいポエムを並べるだけでも話にならない。その両方を結合させ初めてコンテンツ。肩をそびやかしながら「何かのタイミングで使えるように日頃からストックしておくんだよ」と、さっそく投稿した写真とテキストを見せつける。
「だから昼間は目一杯情報を入れて、静かな夜、喧騒が消えた空間でその着想をカタチにする。身体にストレスがかかっていない時、一気に湧き上がるものがある。だから反動が大事。大抵の奴はやりたくてもできねえだろうけど」
寂寞たる工場地帯に乾いた風が吹く。ここは過去でもあり現在、人の営みが途絶えてもなお、かつてあったはずの日常の残り香に誘われる者がいる。あるいはアキラとケンジが入り込んでいるのは異世界の名を借りた未来かもしれない。
「原体験が足りないんだよ。アキラには」
視線の先にあるのは、壁に垂直に張りつく腐食した梯子だった。
「無理だよ……ぼく高所恐怖症だし。梯子が壊れたらただじゃ済まないよ」
「だから、やるんだろ?」
グレーチングに沿って、倉庫室の脇にかかる鉄梯子を見上げるアキラは、若気の至りでここまでついてきたことを今になって後悔した。
「ほんの十数段じゃん。屁ぇこいたら上に着くって」
ケンジは自分に毒味をさせる気だ。前回探索した廃墟で錆び切った螺旋階段を踏み抜き、あわや転落事故を起こしそうになったことがブレーキとなっているのだろう。落ち着きかけていたアキラの心拍数がふたたび上昇していた。
「文字通り、危険な橋だな。けどその先にお宝があると知っていれば、いかない手はないよな」
橋じゃなくて、これは梯子だ。落ちたら川ではなく地面に叩きつけられる。それに、自分は何があるのかさえ教えてもらえないままリスクだけを背負わされている。こんなのこりごりだ。震える手足を目一杯踏ん張らせながらアキラは、ガタつく梯子を—ケンジが面白がって下で揺らしていた—少しづつ登ってゆく。来月には30歳だ、それを区切りに普通の人生に帰ろう。
屋上に手がかかると、急峻な山々の解像度が高まる。自然がこちらを白い目で見ているようだった。
「内階段があるはずだ。それ伝って降りてこい」
言われるがまま、アキラは踊り場から倉庫室の階段を降りる。染料によって真紅に染め上げられた室内はマスクが必須だった。薄暗い床に枯れ葉が敷き詰められ、どこからか水が滴り落ちる音が小さく響いている。壁には20年以上前のカレンダーが貼られたままだ。
スマホの着信音が鳴る。
『内側からラッチを外して裏口を開けろ』
自分は楽をしようという肚か。外でせせら笑っているケンジの姿を想像し、怒りが込み上げてきそうなところだったが、薄闇に目が慣れたアキラは、天井の排水管から伝うよう繁茂するシダが、差し込む陽を浴びながら垂れ下がるその先に視線を奪われた。
打ち捨てられた作業車の中で、ひび割れた溶接用ヘルメットが注射器のシリンジと一緒に無造作に転がっている。物言わぬ白骨死体となってからどれくらいの時間が経ったのだろう。アキラはこれが偽物だとはみじんも思わなかった。もし偽物があるとしたら、これまで人々が耽溺してきた無数の廃墟美と呼ばれる代物だろう。赤褐色と濃緑のコントラスト、陰影の中に浮かぶ石灰質。あてどない生と死が音もなく絡み合っている様。見えない粒子が舞う倉庫室、そこに眠る名もなき人骨は、まるでアキラを幻海の底に沈めたかのように見惚れさせるばかりだった。
名状しがたい感情にとらわれながら、アキラは経緯も定かではない「これ」が誰かの手に渡り、切り取られ、蹂躙され、ラベリングされる姿を想像し、吐き気を催した。善悪のない無数の塵が宿主を見つけ侵食してゆく未来を想像し怖気が走った。震えていたのは、スマホを握る自分の身体だった。
—ぼくこそ不浄な存在じゃないか。
煤けたラッチに手をかけたその時、倉庫の外から物々しい声が響いた。
「—ッ。——-?」
「!……。!」
警察か。瞬時に警戒するアキラの耳に飛び込んできたのは耳慣れないイントネーションでまくしたてる男達の声だった。ケンジの声は聞こえてこない。代わりに、ややあってポップコーンが弾けるような音がした。倉庫の外で何が起こっているか判然としないまま、咄嗟に身を小さくしてやり過ごそうとしていた。堪えきれない尿意を我慢し、薄闇の中で息を殺す時間が続いた。待てど暮らせど、アキラを救う者は現れなかった。
日没が近づいた頃、意を決して外に出た。万が一、誰かに出くわす可能性を避け、裏口からではなく、もう一度屋上に上がり、辺りを見渡す。梯子は降りる時のほうが恐ろしかったのに、まるですべり台を楽しむ子供みたいにアキラは容易に地面に戻ることができた。昼間の坂道を下り、草むらに停めた車に乗り込む。横では〈動物注意〉の看板が常夜灯の灯りをむなしく浴びていた。
※
人気のない埠頭、薄暮に覆われた海面に一隻の船が浮いていた。くつくつと笑う中国人たちの見下ろす先には赤錆びたドラム缶が波に揺られている。目を覚ました頃、ケンジの頭には凝固した血が髪の毛と一緒にへばりついていた。どうしてこんなことになったのかは考えないようにした。目を閉じようが閉じまいが同じだったし、特別腹も空いていない。いつもより疲れているだけだ。きっと数時間後には五体満足で解き放たれる。だったら今この瞬間は—、
「都市伝説だとばかり思っていたけど、マジにいたんだな。廃墟マニアって」
廃墟に侵入する若者を狙って金品を奪うだけならマシだという。快楽主義の彼らは、にべもなく捕らえた者の命まで奪う。証言が少ないのはそのためだ。
なかば悄然としながらケンジは、湧き上がるイメージの奔流に呑み込まれていた。
※
イグニッションをひねると、給油タンクのエンプティーマークが点灯した。市街地までは走れるだろう。一定の速度が最も燃費を食わない、普段は車屋に勤めているケンジから教えてもらったことだ。
詩はわからないが死は書けそうだ。
なぜだかそう感じた。
—この物語は想像上の産物(フィクション)であり、実在するものとは一切の関係がありません。
テキスト・ファイルを閉じ、スプリングのきいたソファに身を投げる。VRゴーグルを外し、仮想現実の世界から日常に舞い戻る。チョコの摂り過ぎで奥歯が痛みだしていたが、ひとまずシナリオが整っただけ良しとしよう。分岐の数や環境調整は詰めが必要だが、アーリーアクセス版のゲームとしては上出来と言えよう。
ラップトップを腹に乗せ、開発部に校了のメールを送る。ケンジのモデルとなった元友人のHPはこの作品を制作する前の段階で封鎖済み。「1.5人で作った」とうそぶいて俺に丸投げさせていたことへのアンサーだ。因果というのは忘れた頃に巡ってくる。アイツは人生のB級スポットを巡るだけの男だったが、俺は今や某社のシナリオ班に引き抜かれてペントハウス住まいだ。
すこし寝よう。一昨日から一睡もしていない。いいかげん自分が滅んでしまう。去来する記憶に攫われるように、微睡みかけているアキラの頭の上で、スマホが短く鳴った。
「ヤクソクノカネ、シテイコウザニアスチュウ。ツギハ、イチニチモオクレナイヨウ、オネガイシマス。ウミハ、オスキデスカ」
振り返れば楽しかったとされているもののほとんどは、リアルタイムでは地獄だったはずなのになぜか人はその部分を捨て置き美談にする。しかし地獄だったと思いたい過去も現在も実際のところ、なべて地獄でしかない。地獄に差す光は地獄をより鮮明にするだけだ。
無機質なテキストの下で、あの日、2人で撮った倉庫室の待ち受け写真がひどく煌めいていた。
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